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新銀行東京のビジネスモデルは破たんしている!


新銀行東京の経営が行き詰まり、400億円の追加出資案が都議会で議論されている。同銀行の設立時には、東京都が1000億円を出資しているが、現時点で累損が1000億円近くなり、当初の資本金を食いつぶしてしまった。そのために、新たに400億円を追加出資しようというわけだ。

報道によれば、すでに賛成の立場を示している自民党に続き、公明党が条件付きで賛成する方向で調整に入ったとのこと。両与党が過半数を占める都議会で追加出資案が可決される可能性が高くなってきた。委員会採決は3月26日、本会議の議決は28日に行なわれる。

それにしても、なぜこんなことになったのか。3月10日に提出された新銀行東京の調査報告書によれば、仁司泰正・元代表執行役の責任が重大であると記されている。仁司元代表が「どんどん貸し込め。貸倒引当金もしっかりと使い込め」と行員に訓示をし、過剰融資、乱脈融資を続けてきたことが経営行き詰まりの最大の原因だという。

確かに、新銀行東京の経営がずさんだったのは否定できない。だが、経営の行き詰まりの責任を元代表一人に押しつけて、東京都が追加出資を押し切ろうとしているのは、どうもわたしには納得がいかないのである。



新銀行東京はビジネスモデル自体に問題があった

そもそも、中小企業にどんどんと融資をするというのは、東京都の政策だったのではないか。そうした東京都の意図を受け、新銀行東京は無担保、無保証でスピード融資を目指した。ほかの銀行と違って細かく調べることなく、書類審査に基づいて公正な基準で融資するというのが新銀行東京のウリだったのである。

では、なぜそのような銀行ができたのか。

今から6、7年前のこと。貸し渋りを続ける銀行を俎上に乗せ、メディアが激しい銀行批判を繰り返したことがあった。ご記憶の方も多いと思うが、簡単にいえばそれは「銀行悪玉論」だった。

そんな状況のなか、「いまの銀行は、やれ担保だ保証人だと、うるさいばかりだ。そうしたものがないと融資をしないものだから、優秀で将来性のある中小企業の芽を摘んでしまうことになる」という意見がでてきた。「そうした銀行は臆病者で能力が低いから、中小企業に貸せないのだ」という議論である。

そこで登場したのが、ミドルリスク・ミドルリターンという、新しい銀行のビジネスモデルだった。

ローリスク・ローリターンのビジネスモデルをとっていた従来の銀行とは一線を画し、少々金利を高めに設定することで、担保も保証人もない中小企業に融資すれば、新しい銀行業が成り立つという考え方だ。それでビジネスが成立すれば、中小企業が救われて経済が活性化するというバラ色の未来がやってくる。

そうした議論に対して、ほとんどのメディアが支持をした。そんな社会の流れに乗っかって新銀行東京ができたといってもいいだろう。

しかし、わたしは当時から、ミドルリスク・ミドルリターンなどという市場は、ほとんど存在しないと言い続けてきた。あるとしても、それはものすごく小さい市場であり、そこでビジネスを展開するのは非常に難しいとしか言いようがない。


「ミドルリスク・ミドルリターン」は空想の産物

なぜ、ミドルリスク・ミドルリターンというビジネスモデルが困難であるか。それは、貸出利率を見ただけでもわかるだろう。新銀行東京は10~15%という利息制限法の上限で貸している。言い換えれば、消費者金融並みの利率で貸し出しているのである。

しかし、そんな金利で事業資金を借りて、一般的な中小企業の事業がまわるはずがない。これは、金融の専門家でなくても、一般常識として当然のことだろう。

身の回りにある中小企業を思い浮かべてほしい。そば屋、パン屋、自動車整備工場といった事業所が、15%の金利を払えるはずがないことくらい、冷静に考えたら誰だってわかる。

現に、新銀行東京の貸出先のうち、2345件もが経営破綻しているという。経営破綻した理由は、けっして融資の量が足りなかったからではない。金利10~15%で資金を借りようとしている企業というのは、経営が追い詰められて、にっちもさっちもいかなくなったところがほとんどなのである。

まともな事業計画を立てて事業をする余裕もなく、ただ目先の運転資金が足りないから、藁をもつかむ思いで金を借りたのだろう。

もちろん、新銀行東京の経営がずさんだったことは否定できない。しかし、公的機関だったことによる経営の不効率がその要因だったのでは、けっしてないとわたしは考えている。ミドルリスク・ミドルリターンというビジネスモデル自体に問題があったのだ。

じつは、ミドルリスク・ミドルリターンを言い出した張本人の一人が、小泉内閣のもとで金融分野緊急対応戦略プロジェクトチーム(竹中チーム)のメンバーを務めた木村剛氏であった。

彼は、銀行の貸し渋りが諸悪の根源であるとして、まさに新銀行東京と同じビジネスモデルのもと、純粋に民間資本によって日本振興銀行を立ち上げた。

では、その銀行は今どうなっているのか。この銀行は民間であるがゆえに、公的機関による経営の不効率というものとは縁がない。にもかかわらず、今期の中間決算は5億円の赤字であり、これまで何度も赤字を出し続けてきた。

民間企業で、しかも金融のプロ中のプロである木村氏がかかわってさえ、うまくまわらないのである。ミドルリスク・ミドルリターンというビジネスモデル自体が、そもそも空想の産物だったという立派な証拠である。


残された道は「安楽死」か「普通の銀行への転換」の二つ

日本の銀行による不動産担保融資に対して、批判する人は多い。しかし、考えてみれば、これは世界最強のビジネスモデルでもある。

というのも、銀行業というのは預金を預金者から預かり、元本保証で返さなくてはならない商売だからである。そうした事業をしている限り、資金運用において高いリスクをとってはならない。リスクが悪いほうにでたら、元本保証で預金を返せないからだ。

そもそも、リスクの高い、いわばイチかバチかの資金というのは、銀行のような間接金融が担うべきものではなく、株式や債券の取引のような直接金融が担うべきものである。

銀行の預金者にしても、そんなイチかバチかの勝負は期待していないだろう。そこをはき違えて、まったくパイのないところに、まるでユートピアがあると信じ込んで突っ込んでいったのは、石原都知事の責任でもあるし、メディアの責任でもあるとわたしは思う。

なにしろ、当時のメディアは、ミドルリスク・ミドルリターンをとる新銀行東京の登場に拍手喝采し、あたかも中小企業の救世主のように賛美していたのである。それが、ここに来て、手のひらを返すように、東京都や石原知事を袋叩きにしているのはいかがなものか。メディアも同罪なのであり、まったく反省がないとしかいいようがない。

さて、今回追加出資する400億円であるが、これは現に新銀行東京に資金を借りている企業がある以上、やむを得ない措置なのかもしれない。確かに、いきなり新銀行東京を潰してしまうと、借り手は闇金に走るしかなく、バタバタと倒産が続出することが予想される。

ただ、追加出資を機に審査システムを改善するくらいで、新銀行東京が復活するかといえば、それは絶望的である。繰り返すが、ミドルリスク・ミドルリターンというマーケットがほとんど存在しないのだから、どうしようもない。

残された道は二つである。一つは、新銀行東京を安楽死させる方法。もう一つは、一般の銀行に衣替えさせる方法である。現に、貸出先の比重は中小企業から大企業に移りつつあるので、それをさらに推し進めていくわけである。つまり、優良な企業に低利で貸し出す、ローリスク・ローリターンに方針転換するのだ。

逆に言えば、「新銀行東京は、けっして中小企業の味方ではありません。今後は金をかせぐための普通の銀行に変えていきます」と宣言をしない限り、400億円はまた無駄になるだろう。

400億円という金は、国のレベルで見ればたいしたことはないかもしれないが、当初の1000億円と合わせると1400億円に達する。これは、1280万人の東京都民1人あたり、1万円以上の税金を使った計算になる。

それがいいことに使われるならまだしも、いったいどこに消えてしまったのか。おそらく、破綻した2345社のなかには、借りる前から自分でもダメだと思っていた人も多かっただろう。そうした「目先の金」に貴重な税金がつぎ込まれてしまったのである。

400億円の追加出資はどうやら決まりのようだが、野党のみならず与党も、10~15%で貸し出してきた意味を厳しく問いただすべきだろう。そんな利率で一般の中小企業が金をまわすことなど不可能であることくらい、都議会議員ならわかっていると思うのだが。



経済アナリスト 森永 卓郎

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  1. 2008/03/31(月) 22:33:46|
  2. 世界と日本
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すべての命はつながっている

■新しいヒト万能細胞誕生に思う


≪皮膚細胞から万能細胞へ≫

昨年11月、京都大学の山中伸弥教授らによって新しいヒト万能細胞(iPS細胞)の作製成功の報告があった。日本の科学者チームの快挙である。

あらゆる生物の受精卵のゲノム(全遺伝子情報)には、将来、作られるすべての細胞や臓器に関する情報が書き込まれている。この受精卵は、どのような細胞にでも成長できる全能性がある。しかし、受精卵はいったん分裂を始めると、ごく初期の段階を除き、この全能性は失われ、それぞれ異なった細胞や臓器に分化していく。そして、分化した細胞は、もう元の万能細胞には戻らないと長い間信じられてきた。

この常識をくつがえしたのがクローン羊の誕生であった。それから10年が過ぎ、昨年、新しいヒト万能細胞が誕生した。これは、受精卵から出発したものではなく、皮膚の体細胞から万能細胞を作り出すのに成功したものである。

この成功には、2つの大きな意味がある。1つは、体細胞を使うために、倫理面の問題が回避できること。2つ目には、自分の傷ついた細胞や臓器などを、自分の細胞で作製できる再生医療に大きな道を開いたことになる。

ここで忘れてはならないことがある。世界の科学者を総動員し、世界の全財産をつぎ込んでも、いまだに、細胞のコピーはつくれるが、細胞そのものは元から創ることはできないのである。これは、たった一つの細胞ですら、生きていることが、いかにすごいことかということである。細胞1個が生きているだけでもすごいのに、私たちの身体では約60兆個の細胞が毎日、大きな争いもなく助け合って見事に生きている。

≪ハーモニーを演出する力≫

ヒトには数百種類もの細胞が、それぞれ独自の役割を演じながら他の細胞を助け、臓器の働きを支えている。臓器は、それぞれ独自の働きを演じながら、個体を生かしている。このような見事な協力とハーモニーを演出しているのは、自律神経だといわれている。その自律神経を動かしているものは何か、現代医学ではいまだに全く分かっていない。この見事なハーモニーと助け合いがデタラメに起こるわけがない。その情報は、ゲノムの中に書き込まれていると私は考えている。

21世紀には、この利他的な遺伝子(群)と名付けてもよいものの正体の一部が解明できると思っている。

1953年、遺伝子の本体がDNAという物質であることと、その構造が解明された。そして驚くべきことが明らかになった。それは、細菌を含む微生物、昆虫、植物、動物、人間など、すべての生き物は「A・T・C・G」と呼ばれる同じ遺伝子暗号を使っていることが発見されたのである。これは、地球上のあらゆる生きとし生けるものは、「A・T・C・G」を含むDNAでつながっていることを意味している。

さらに、DNAの解明をした結果、地球上すべての生き物の元は、一つであったことも判明した。人間は特別な存在で、地球の資源や他の生物を利用しているが、長い進化の歴史から見れば、すべての生物は人間にとって先祖であり、親戚(しんせき)、兄弟姉妹のような存在である。

≪「偉大な親」のようなもの≫

私は生命科学の研究に50年従事してきたが、つくづく感嘆していることがある。それは、細胞核中の極微の空間に、万巻の書物に匹敵する遺伝子情報を書き込み、一刻の休みもなく働かせている大自然の素晴らしさである。この働きは人間業ではない。この目には見えないが、大自然の偉大な働きを、私はサムシング・グレートと表現してきた。本当に大切なものは目に見えないのではないか。心、いのち、そしてサムシング・グレートも目には見えない。サムシング・グレートとは何か。これは人類の永遠の課題である。

自明のことであるが、子供は親なしでは生まれない。サムシング・グレートとは、すべての生き物の元の親であり、現在も休むことなく働き続けている、偉大な親のようなものではないだろうか。さらに、人類が作り上げてきた文明、科学、思想などの根源は、実はサムシング・グレートに由来していると考えている。

地球上のすべての生き物は、命の元であるサムシング・グレートにつながっていて、お互いに協力しあって、地球生命体を構成しているのである。それにもかかわらず、人類は長年にわたり、民族、人種、国家、宗教宗派までもが争いを繰り返してきた。今こそ、人類を含めたすべての命がつながっていることを自覚して生きたいものである。



【正論】
筑波大学名誉教授・村上和雄(むらかみ かずお)

  1. 2008/03/30(日) 06:00:07|
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中国人の外交術

中国人の外交術

米中国交正常化交渉においてキッシンジャーを翻弄し続けた中国流の外交術に学ぶ。



■1.中国招待は皇帝の温情!?■

1971年7月、キッシンジャー大統領補佐官は北京への最初の秘密訪問を行った。ニクソン大統領が対中国交正常化への意欲を示し、5月に中国側が大統領の公式訪問を歓迎すると応えたのを機に、そのお膳立てのための極秘訪問をしたのだった。

キッシンジャーを迎えた周恩来首相は、こう語った。

中国側がまだ招待していない実に多数の米国の政治家のリストをみせましょうか。私のデスクには、中国を訪問させてほしいと要請する米国政治家からの手紙が山のように積まれています。私は返事はまだ出していませんが---

周恩来の先制パンチだった。交渉相手をそのライバルと競わせて焦らせる、中国一流の外交術である。何千年も国内で激しい外交合戦を繰り広げてきた中国では、ごく基礎的な手法であった。この後に続く何年もの米中交渉の間、キッシンジャーはこうした中国側の天才的な外交術に翻弄され続けることになる。

この先制パンチに、キッシンジャーはこう応えるのが精一杯だった。

あなたがしたこと(ニクソン氏訪中招待)にはニクソン大統領も非常に感謝しています。

これでは中国皇帝への拝謁を許された周辺蛮族の使節が、皇帝の格別の仁慈に感謝しているようで、完全に位負けである。周恩来はその答えに満足したように、さらにこう畳みかけた。

その招待は毛主席の英知と指示によりなされたのです。


■2.CIA報告書『中国人の交渉術』■

米中国交正常化交渉はこの後、79年1月カーター政権下で結実するまで7年以上も続けられるのだが、中国の外交術に翻弄され続けた米政府は、この経験を『中国人の交渉術』という報告書にまとめて、中国との交渉を担当する人間には熟読することを義務づけた。

米国中央情報局(CIA)が発行したこの報告書は、ランド研究所主任研究員のリチャード・ソロモン氏によってとりまとめられたのだが、彼はキッシンジャーの補佐官を務めた人物である。前後20年に及ぶ中国との交渉記録を渉猟し、さらにニクソン、フォード、カーター、レーガンの歴代政権の高官たち30人以上にインタビューを行った。

キッシンジャーもインタビューに答えた一人であり、その体験をもとに、この報告書では随所にキッシンジャーが翻弄された実話がちりばめられている。冒頭のシーンはその一つである。

キッシンジャーほどの著名な国際政治学者でも、実際の交渉の場では手玉にとってしまうほどの高度な外交術を、中国の政治伝統は生み出している。

その分析を行った本書は、日本の対中外交、そして民間企業における交渉においても参考になる。本号では、その一端をご紹介しよう。


■3.「中国の友人」を選ぶ■

中国の外交術の原則は、国家間の関係は条約などの法的なものでなく、あくまで個人どうしのつながりに基盤を置く、というものである。

これは中国の歴代王朝が(現在の中国共産党政権も含めて)、皇帝の独裁を原則としてきたことから生まれた歴史的な特性だろう。国家間の関係も、企業間の関係も、まずは相手側との人間関係を作る所から始まる。

その第一ステップは、中国側と個人的関係で結ばれた「中国の友人」を作り出し、それが相手側の交渉窓口となるよう工作することである。相手国政府内のライバル関係、あるいは権力状況を調べて、「中国の友人」として最適な人物を選び出す。

米中交渉において「中国の友人」として選ばれたのが、キッシンジャー補佐官であった。71年はじめに中国政府はニクソン政権と直接のコンタクトをとろうと決めてから、少なくとも二人の仲介者を通じて、キッシンジャーに特に会いたいという意向を伝えている。

最初は71年2月に、喬冠華外務次官がこの意向を北京駐在のノルウェー大使に伝達した。4月には駐米パキスタン大使が周恩来首相からの同様のメッセージを伝えている。こうした名誉ある「ご指名」に与(あずか)ったキッシンジャーが、対中国交回復にどれほどの意欲を燃やしたかは、想像に難くない。


■4.「中国の友人」への計算され尽くした「熱烈歓迎」■

日中国交正常化の場合、「中国の友人」に選ばれたのは田中角栄だった。佐藤栄作政権の親台湾政策を継承する福田赳夫に対して、田中角栄に訪中招待を呼びかけ、親中派の大平派、三木派を抱き込んで、田中政権の成立を裏から助けた。田中角栄は首相に就任した初閣議後の記者会見で「中華人民共和国との国交正常化交渉を急ぐ」と発言している。[a]

逆に「友人」になりえない人物が交渉相手に選ばれそうになると、中国はそれを避けるためにあらゆる手段を使う。1980年の米国大統領選の最中に、親台湾派と見られていた元CIA副長官レイ・クラインが新政権の対中窓口になりそうになると、トウ小平は副大統領候補ブッシュとの会談で「レイ・クラインとは何者なのか。クラインの中国に関する見解はレーガン・ブッシュ政策を反映するものなのか」と厳しく問い詰めた。

そしてクラインがある記者会見で「中国は野蛮」と口を滑らせた発言を大々的に取り上げ、激烈に非難したのだった。中国敵視政策を決意した政権でない限り、ここまで非難された人物を対中外交の責任者に任命することはできないであろう。

「中国の友人」に任命された人間が招待に応じて訪中すると、計算され尽くした「熱烈歓迎」を受ける。

キッシンジャーはニクソン訪中の事前準備に訪中した際に、中国側がレセプション、名所見物、食事、音楽など綿密に効果を計算して準備を進めていることに強い印象を受けたと述懐している。2回の訪問で、紫禁城と万里の長城に案内され、さらに北京の現代オペラを観劇させられた。

田中首相が北京入りしたのは9月の30度を超える暑い日だったが、迎賓館の部屋は田中の好きな17度に設定されており、田中の第一声は「ああ涼しくて助かる」だった。部屋の隅にはさりげなく田中の好きな台湾バナナ、富有柿、木村屋のあんパンが置いてあった。「これは大変な国に来たな」と日本側は驚いた。[a]


■5.「相手のライバルと競わせる」■

こうした陰からのバックアップや「熱烈歓迎」で相手国のリーダーと個人的パイプを作る事に成功すると、その「中国の友人」を通じて中国は様々な要求や圧力をかける。

ここで「中国の友人」が反抗することもあるが、それを抑え込む手口がいくつかある。一つは「相手のライバルと競わせる」という手である。

冒頭に紹介したように、周恩来首相がキッシンジャーに対して、他にも中国の招待を待つ米国政治家がたくさんいる、と牽制したのも、この一例である。共和党のニクソン政権下で国交正常化への進展がはかばかしくなければ、中国訪問を切望する民主党の多数の政治家に交渉相手を切り替える、と脅したのである。

1974年11月、ニクソン訪中後、3年近く経っても、米中交渉がまだ続いていたが、トウ小平はキッシンジャーに対して、そのライバルと目されていたシュレジンジャー国防長官を中国に招待すると告げて、ショックを与えた。 [1,p108]

米中関係では、もう一つ考えていることがあります。両国関係がいま冷却しているという点です。このため中国政府は国防長官ジェームズ・シュレジンジャー氏への公式招待を発表する。同氏の訪中はいまの米中間の諸問題に適切な答えを与えるでしょう。

キッシンジャーが「クレムリンでは(驚いて)すぐに政治局会議を開くでしょうね」と牽制すると、トウはこうかわした。

私たちは気にしません。むしろソ連が政治局会議を開くことを私たちは望んでいます。中国は真剣にこの招待を出しているのです。


■6.「われわれはあなた方を必要としない」■

交渉相手をライバルと競わせて、自分を有利な立場に置くという外交術は、相手国全体に対しても用いられる。

上記のキッシンジャーとトウ小平の会談の前月、中国首脳は突然、ソ連に向けてボルシェビキ革命の記念日を祝う電報を打ち、中ソ不可侵条約を提案した。米中関係が冷却している時期にこんなメッセージが送られただけに、中ソ対立が解消されるのではないか、との憶測まで流れた。

その直後のキッシンジャーとの会談で、トウ小平は「ソ連の覇権政策は不変」という見解を強く再確認してみせた。キッシンジャーとの会談を狙って、中国側が「米中交渉が進展しないと、中ソが再び組むかも知れない」という揺さぶりをかけたのだろう。

レーガン大統領が84年春に北京を訪問した際にも、中国側はこの外交術を巧みに使ってみせた。ソ連のアルキポフ第一副首相がすぐに中国を訪問する予定だとレーガン大統領に伝えたのである。中国首脳はさらに「日中関係が21世紀まで円滑に保たれる」と力説して、行き詰まっている米中関係と対比した。

軍事はソ連、経済は日本があるから、アメリカが中国との関係緊密化を望まないなら、それでも中国の方は一向に困らない、という圧力である。

「われわれはあなた方を必要としない。あなた方こそわれわれを必要としているのだ」というのが、中国の慣用句である。


■7.「時間のプレッシャー」■

中国のもう一つの外交術は、相手側に「時間のプレッシャー」を与えることである。

キッシンジャーは、1971年10月の二度目の中国訪問の際の共同コミュニケ草案づくりの光景を次のように描いている。[1,p131]

われわれを夕食の蒸し焼きアヒルで腹一杯にさせたあと、周(恩来)氏は自分のつくった草案を突きつけてきた。周草案は、一連の問題について極めて非妥協的な言葉で中国側の立場を述べ立てる一方、米国の立場を述べる空白のページを残しており、米国の立場は、中国側の立場とは反対になることが予測されていた。[1,p131]

米国は自身の主張を盛り込むことができるが、中国と米国の主張に何の共通点もないのであれば、ニクソン訪中は意味のない失敗であるとされてしまう。キッシンジャーは、「限られた訪問期間の中で何らかの共通点を見いださなければならない」というプレッシャーをかけられ、翌朝に対案を提示することを約束した。

対案作りは、肉体的な耐久力との競争になった。まず、私が3時間眠っている間にウィンストン・ロードがコミュニケを練り直した。そして彼がベッドに潜り込むと、私が夜の明けるまで草案を推敲した。

共同コミュニケの草案の大部分はこの際にまとまったが、最も重要な台湾問題に関する合意は、翌年2月のニクソン大統領訪中時にまで持ち越された。

この時も、キッシンジャーは喬冠華外務次官と20時間におよぶ交渉を続けたが、大統領の北京出発の時間が迫ってくる。喬次官は、まとまらないのなら共同コミュニケを出さなくともよい、という虚勢を張ったが、米国側としては、それではニクソン訪中は失敗だった、ということになる。

結局、米国側は大統領の出発の12時間前に台湾問題で譲歩し、「上海コミュニケ」をまとめたのだった。


■8.「後で都合のようように解釈」■

こうした「時間のプレッシャー」のもとで、米国は中国側が主張する「一つの中国」という原則を受け入れた。しかし、そこでは「米国政府は台湾海峡のいずれの側の中国人も、中国は一つであり、台湾は中国の一部だとみていることを認識し、その立場には挑戦しない」という文言であった。

これなら、台湾側が「中国は中華民国という一つの国であり、台湾はその一部」という主張をしている事も米国政府は「認識」していることになる。極端な時間のプレッシャーの下で、キッシンジャーが考え出した天才的な苦肉の策である。

しかし、この苦肉の策も、老練な中国の外交術に手玉にとられることになる。中国側は後に「台湾は中華人民共和国の一部である事を米国が承認した」というように一方的にねじ曲げて解釈してしまう。

77年1月、カーターが大統領就任直前に、「台湾は(中国とは)別の国」と述べたことに対して、上海コミュニケ違反として批判した。さらに米国が台湾に武器を売却する都度、「上海コミュニケ違反」として非難した。

合意事項を含みのある文面にしておき、後の自分に有利な形に解釈する、という中国の戦術は、日本との交渉においても発揮されている。[a]


■9.「敵を知り己を知らば百戦危うからず」■

以上のような中国人の外交術は、天才的なものではあるが、様々な交渉において、繰り返し見られる一定のパターンである。

逆に言えば、そのパターンを知っていれば、こちらに有利な形で交渉が進められる。だからこそ、米国はこのレポートをまとめて、中国との交渉担当者に読ませているである。我が国の外交担当者や国際的なビジネスマンも、こうした研究が必要である。

「敵を知り己を知らば百戦危うからず」とは孫子の言葉である。(文責:伊勢雅臣)



■リンク■
a. JOG(312) 「日中国交正常化」~ 幻想から幻滅へそもそものボタンの掛け違えは、田中角栄の「日中国交正常化」での「異常」な交渉にあった。http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h15/jog312.html


■参考■

1.中国人の交渉術―CIA秘密研究
産経新聞外信部







Japan On the Globe国際派日本人養成講座

  1. 2008/03/29(土) 06:00:08|
  2. 幸福になりたい
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「暗記」だけの頭脳は御免だ

■日本には創造促す教育が不可欠



≪少ない努力で目的に≫

日本人は、目的を与えられると、極めて少ない努力で到達する手法を開発する天才的能力を持っている。しかし逆に計算を覚えさせようと考えて筆算や暗算をやらせておくと、親が使っている電卓を探し出してきてやってしまう。親が使わせないで隠しておくと、友達のところへ電話を掛けて答えを聞いたり計算をしてもらったりして、肝心の頭脳の能力進歩という本来の目的を崩してしまう。

学問でも、算術程度なら社会へ出ても、簡便法を思いつく能力の方がばか正直より効果的なこともあるが、高度のことになるとやはり簡便法などでは間に合わないから、しっかりとばか正直に能力を養成してゆくことが必須になる。

電卓などがきっかけになって、子供たちの学習のあり方も、大幅に阻害されることになってしまった。その最大のものは、丸暗記である。私のように記憶力の弱いもののひが目かとも思うが、受験塾では何でも考えることなどせずに単純に暗記しなさいと簡便法を開発して得た結論を明快に指示し、若い人たちは超能力ともいえる暗記力を発揮して膨大な知識を暗記してしまう。

ところが、何時までに、どこまで暗記するかを予定して暗記を始めても、最初のうちは頭はもう一つの能力を発揮して「なぜだろう」「なぜかしら」と考え出してしまう。

しばらくして気が付いて、「しまった!予定に遅れた」と考えるのを中止して、再び暗記に戻ることになる。そして次第次第に考える習性がなくなってきて、頭の中にはわけの分からない短文がギッシリ詰まったような状態になってくる。前に暗記したことを間違えて新しく暗記したことが反対でも気がつかないという状態すら起こりうるのだ。


≪経済活動も頭脳がカギ≫

これまでのことを憶えているだけで済むのなら、これで何とかなる。科学でも科学技術でも単純な、これまで通りやれればよいというようなことなら、これで済むだろうが、創造しようとなるとこれではできない。

海外が不況だから国内対応の経済が重点になるとのことだが、内需が増して国内に売るときにでも、新しい優れた特性を持った商品開発も当然ながら必要である。そして古い型の商品を製造するときでも原料が必要で、これを全部再生で手当てするわけにはゆかない。新製品なら当然であるが、在来商品を作るにしても原料の輸入が不可欠で、その支弁のためには、海外市場から資金を獲得しなければならない。

つまり内需を開拓維持してゆくためには外需が必要である。結論として、日本のような資源のない国では、外需を開発することが経済振興のためには絶対必要であるということになる。

結果として華々しく海外貿易に乗り出すことをしなくても、海外に少量輸出して多額の原料を入手できる貿易を実施してゆくことが絶対に必要である。

つまり科学立国はもちろん、科学技術立国のためにも、日本人の頭脳活動がその源である。

このような時には日本人の頭脳活動を活発にして、ちょっと考えるだけで他の人よりもより高い、より多いことを思いつくようにしておかなければならない。現状を見て、先が読める力も重要である。これらができる頭脳を持った人間を養成しなければ日本の明日の繁栄はない。


≪複雑思考できる能力を≫

幼少のころから考えるように教育を実施してゆくことが、日本の教育に最も重要な事項である。そのためには入学試験の問題を一新して思考のいる応用問題や記述式試験を出すようにすることが大切である。

複雑な思考もできる能力を持たせるようにしてゆくことが大切になってくる21世紀社会に対応して、これまで以上に思考能力を高めるように教育を改良してゆくことが必要である。

単純な事項の結論を暗記していて、何とか対応ができても、現実の複雑な問題に対する対応は暗記できていないから、その場その場で解答を考え、かつ大量の解答をつなぎ合わせて、全体の解を求めなければならないことが多くなって来るのは当然である。

そのためには、個々の事象をよく理解して事象を見、また報告を聞いて、その結果を正しく導き出す能力つまり理解が十分に進んでいなければならない。どうなるか分からず、結論だけ暗記していても、結論を推定することもできないようでは、理系でも文系でも創造力は無論、応用能力すら欠くことになる。ましてや、暗記しただけで矛盾すら気がついていなければ、大事故にさえつながる。



【正論】
首都大学東京学長・西澤潤一(にしざわ じゅんいち)


  1. 2008/03/28(金) 06:00:36|
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職人道

国柄探訪 : 若者たちの職人道

一人前の職人を目指して、若者たちが様々な職場で仕事に打ち込んでいる。



■1.ケーキを投げつけられて■

田端友未さん(埼玉県、20歳)が初めて仕上げを任されてクリームを塗ったケーキをシェフに見せた。シェフはそれを友未さんに投げつけ、「お前はこんな物を店に出すのか」と言って背を向けた。

肩から腕からダラダラと溶けたクリームが流れた。友未さんは殴られたようなショックを受け、泣くのをこらえながら店頭に飛び出した。

私は絶望を感じて暗い表情をしているのに、ショーケースの中のケーキを眺めるお客様や子供達は皆笑っていた。その時初めて分かった事があった。人は何か特別な気持ちを持ってケーキを買いに来るのだ。人に笑顔や喜びを与える優しい力がケーキにはあるのだ。そして私は思った。私は負けない。いつかあいつを追い越して立派なパティシエになってみせる。[1,p48]

田端さんは高校卒業後、ケーキ職人を志して、このケーキ店に就職した。シェフはとても厳しく、バカヤローと怒鳴られない日はなかった。何かをする度に暴言を吐かれた。毎日泣きながら帰った。

そんな毎日が続いていた所、ある日突然、シェフが田端さんにケーキの仕上げを任してくれたのだった。これまでシェフの技術やアイデアから学んできた事を示すチャンスだと思って、自信を持ってクリームを絞った結果が、これだった。

それからも厳しい修行が続いたが、その店は区画整理にあって、廃業となった。別れ際にシェフは「残った者だけが本物になれるんだ」と言ってくれた。

新しく就職した店でも、田端さんは頑張っている。

私はとにかくシェフから信用を得たかった。だから細かいことを疎かにせず、常にシェフの行動から目を離さなかった。自信を持ちはじめた私は少しずつ成長していった。そしてパティシエになるという夢は目標になっていった。


■2.「おいしーね」、その一言がとても嬉しくて■

清水敦さん(東京、38歳)は、高校生のときに寿司屋のアルバイトをした事が縁で、和食の世界に興味を持った。仕事ははじめのうちは出前専門だったが、2、3カ月やっているうちに、お客様に出す簡単な仕込みを教わった。

自分が仕込みをした魚を食べたお客さんから「おいしーね」と言われる、その一言がとても嬉しかった。この経験が機縁となって、高校卒業後、料理界に入った。

料理の世界は奥が深い。追い回し(掃除、洗い物などの下働き)から始まって、魚・野菜の下ごしらえ、それができたら、サラダ、おしんこ、小魚のおろし。野菜の切り方も種類によって異なる。これらができるようになるまで2年から3年かかる。

その後でようやく「焼き場」を担当させて貰えるようになる。魚を焼くにも、野菜を焼くにも、一つひとつが違う。魚でも種類や大きさによって、火加減を調整しなければならない。さらに春夏秋冬、旬のものが2か月おきに変わる。2年ではとても覚えられない。

次は天ぷらなどの「揚場」、それができると煮物をつくる「煮方」。

レシピなどない、自分の舌がすべて。調理の世界は煮方で職人と、よくオヤジはいう、わかる気がする。・・・

その日の材料の生の味から味付けしていく、ジャガイモを煮るのに毎日味の調味料が違う。でもそこがプロの調理人だ。毎日平均同じ味に味付けする、とても不思議だ。[1,p77]


■3.「調理人は一生勉強していく世界だ」■

清水さんは調理人の道を歩み始めて20年になる。職人と言われる煮方になるまでに約10年かかり、その後、煮方で10年過ぎた。

親方に完璧にほめられたことはいまだない。昼休みにコーヒーやジュースを飲んでも「味が分からなくなるだろ」とどなるオヤジ。とても厳しいしすごくこわい。でもそんなオヤジの弟子で誇りに思うし、感謝している。

バブル後、大手会社の接待などに使われていた高級料亭がかなりつぶれた。安くておいしい店がうけている。

その流れに合わせ、なおかつ伝統の日本料理を守っていくオヤジの弟子で本当に感謝している。そのオヤジの口癖は「調理人は一生勉強していく世界だ」とよく言う。その言葉の意味がわからなければ職人として見てもらえないだろう。

それにお客様に対し「真心」「愛情」「感謝」の気持ちを持っていれば、料理の技術が進んでいても、決して手抜きはせず手作りの料理だと、それがお客様に返す真心だと思う。

そんな頑固オヤジは今の時代どれだけ残っているのか?私もそんな頑固オヤジの一人になるのはいつの日だろう。[1,p78]


■4.「バケツの重みが分かった時、お前も一人前だぞ」■

大塚博之さん(東京、25歳)は父親が左官業を営んでおり、小さい頃から父親が壁塗りをする仕事ぶりを見ていたので、いつか父親を超える職人になろうと思っていた。

中学を卒業すると、電車で30分くらいの所にある別の左官業の会社に就職した。父親の元ではどうしても甘えがでると思ったからだ。毎朝、5時前の電車に乗り、会社に着いたら倉庫を開け、掃除をし、先輩の職人達が職場に現れたらお茶を入れる。

先輩の職人達が仕事を始めると、バケツでセメントを運ぶことだけが、大塚さんの日中の仕事だった。中学を出たばかりで、まだ体も出来ていなかった大塚さんには、25キロものバケツを一日数十杯も運ぶことは大変だった。その重みが辛くて、逃げ出したかった時もあった。

親方からは「その重みが分かった時、お前も一人前だぞ」と言われたが、15歳だった大塚さんには、全く意味が分からなかった。

壁塗りの練習は、毎日昼休みに30分ほどさせてくれた。親方は「お金も大事だけど、自分達は物を作る仕事だよ、心をこめて初めて物と呼べるんだ」と、繰り返し大塚さんに言い聞かせた。


■5.「その重みがあるから今の自分がいます」■

弟子入りして3カ月目を迎えたある日、親方からこう言われた。「今日一日かかってもいいから、自分の力で壁を仕上げてみなさい」

大塚さんが「無理ですよ」と言ったら、思いっきりひっぱたかれた。「やる前から無理だったら、もう帰れ! そんなんじゃいつまでもバケツ運びだぞ! 職人が自信を持っていなければ仕事はいつまでもできないぞ! くやしかったら結果を出せ」その言葉に大塚さんはやる気を出した。

夜遅くなっても親方は最後まで見守っていてくれました。でき上がった時の喜びは、今でも忘れません。仕上がりを見て親方に「やればできるだろう、その自信を忘れずに、これからはたくさん壁を塗れ」と言われました。[1,p11]

仕事を覚えはじめの頃は、先輩の塗り方が違うのにとまどった。最終的に仕上がりは同じでも、皆仕事の進め方が違うのである。結局、大塚さんも自分に一番あったやり方を見つける事ができた。

月日がたち、やがて大塚さんは、一つの現場を任されて、材料の搬入から、職人の段取りまで、親方の代わりにやれるようになった。その時、親方は一人前になったと認めてくれた。

親方に「覚えているか? お前がバケツが重たいと言ってた頃に、俺が言った意味が今なら分かるか?」と聞かれました。私は、自信を持って言いました。「その重みがあるから今の自分がいます。自分にも弟子ができた時、その辛さが分かります。その重みがあるから一生懸命仕事を覚えることができました。今までありがとうございました」と言いました。[1,p13]

この道に入って11年。大塚さんは今は京都の寺院に残る伝統的な左官の技術に興味を抱いている。「いつまでたっても職人は、修業の毎日だと思います」と大塚さんは言う。


■6.「人の心に何かを響かせるようなものを彫りたい」■

山形県で生まれ、埼玉県の会社に就職した佐藤努さん(29歳)は、何かを作る仕事をしたい、と思いつつ、それが見つからないまま、会社勤めも6年目に入っていた。しかし、休みの日に鎌倉を訪れた時、転機が訪れた。

山道にひっそりと佇(たたず)む野仏を見つけて、そのやさしい顔に心を奪われた。そうだ、自分もこんな仏像を彫りたい。人の心に何かを響かせるようなものを彫りたい。その野仏は石のようなものでできていたが、なぜか私はこの時、自分は木に彫ってつくりたいと思った。木彫師になろう。仏や地蔵を彫る仕事がしたい。[1,p101]

木彫師の弟子入りをさせてくれる所を探していた所、ある雑誌に、浅草の江戸伝統木彫りが紹介されていた。これは、と思って、早速行ってみると、すでに同様な希望者が何人も来ていた。

師匠は海坊主のような風貌の人で、いかにも下町の職人という感じの恐そうな人だった。訪ねて行った私と少しだけ話をし、採用するともしないとも言わず、ただ「見学なら勝手に来い」とだけ言われた。それでもこれしかないと思った私は、次の日から弁当を持って毎日そこに通った。最初は見学、そして雑用、そのうち木片を与えられ言われたものを彫って見せたりした。[1,p102]

1ヶ月半が過ぎて、ようやく弟子入りが認められたが、40人近く来た中で残ったのは、二人だけだった。

怒鳴られることは当たり前、彫刻刀の柄で殴られることも日常茶飯事だった。何度、師匠から「やめちまえ」と言われたか分からない。


■7.「自分は今、夢の途上にいる」■

そんな日が5年も続いて、ようやく、招き猫や七福神といった小物から、ついに社寺彫刻までやらせて貰えるようになった。

宮大工の手によって、自分が彫刻したものが神社に組み付けられるのを見た時、何とも言えない熱いものが胸に込み上げてきた。今まで社寺彫刻は工務店に納めるだけで、実際に組み付けた状態を目にすることはなかった。しかし今回はじめて師匠の心遣いで、長野県のあずみ野まで職人たちと見に来たのだった。会社員をやめて江戸彫刻師に弟子入りしてから5年、やっとここまできた・・・そんな思いでいつまでも見上げていた。[1,p100]

「そろそろ引き上げるぞ。」 この5年間の様々な出来事を思い返していると師匠に肩を叩かれた。

職人の世界で5年目といったら、まだほんのひょっこだ。人の心を響かせる作品を彫れる日はまだまだ遠い。「よしっ、これからもっともっと頑張るぞ」。自分は今、夢の途上にいる。今にも雪を降らせそうなあずみ野の冷たい空気が、高揚した頬に気持ち良かった。[1,p104]


■8.「職人」と「労働者」の違い■

以上、職人への道を歩む4人の若者たちの姿を追ってみた。

『職人学』『職人力』などの著書で、職人の生きざまを小説やノンフィクションで描いている小関智弘氏は、「職人とは、ものを作る手だてを考え、道具を工夫する人のことである」と述べている。そして、「与えられる仕事を、教えられたとおりにすればよいなら、それは単なる労働者にすぎない」と言う。

確かに、ここに登場する若者たちは、それぞれの仕事の手だてを一生懸命に工夫している。マニュアルを与えられて、ロボットのようにそれをこなしていれば給料を貰える「労働者」ではない。

さらに、ここで紹介した若者たちの生き方を見ていて気がつくのは、職人とはもう二つの点で、労働者とは異なるという事である。

第一は親方の存在である。若者達は親方に怒鳴りつけられたり、励まされたりしながら、職人の道へと導かれていく。

第二は客の存在である。職人たちは心を込めて作った物やサービスを、直接、客に提供する。それによって客が喜んでくれる事が、何よりの励みとなる。

親方や客とのつながりの中で、職人たちは自分の腕を磨いていく。人生の意味も幸福も、人とのつながりの中でしか存在しない。仕事の修行すなわち人生修行と考える日本の職人道の伝統は、まことに奥行きの深い人生哲学である。[a,b,c]


■9.様々な職場で心を込めて仕事をする「職人」が増えていけば■

職人というと、ここで紹介したような調理師や彫刻師といった手仕事の分野のみを想像しがちだが、「自分で工夫する」「師匠を持つ」「顧客の喜びを追求する」という点から考えれば、コンビニでのアルバイトでも「労働者」と「職人」がいるはずだ。

コンビニで指示された通りに働いている人間は「労働者」だが、商品をどう陳列したらよく売れるのか、お客さんにどんな対応をしたら喜んで貰えるのか、と工夫しながら仕事をしている人は「職人」なのである。同じ事は、サラリーマンや教員、公務員の世界でも言える。

様々な職場で心を込めて仕事をする「職人」が増えていけば、一人ひとりは幸福な国民となり、その仕事を通じて国家は栄えるであろう。



■リンク■
a. JOG(274) 日本の技術の底力幕末の日本を訪れたペリー一行は、日本が工業大国になる日は近いと予言した。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h15/jog274.html
b. JOG(294) ニッポンの明日を開く町工場誰もやらない仕事に取り組んでいるうちに、誰にもできない技術を開発した金型プレス職人。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h15/jog294.html
c. JOG(321) 100万分の1グラムの歯車世界一の超極小部品を作る職人技が日本企業の明日を示す。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h15/jog321.html

■参考■

手仕事を見つけたぼくら (小学館文庫)1.手仕事を見つけたぼくら
(小学館文庫)

小関 智弘

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Japan On the Globe国際派日本人養成講座

  1. 2008/03/27(木) 06:00:56|
  2. 世界と日本
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ストレスへの反発が家族に

■近親者間殺人にみる日本人の特性

≪多い自殺とも関係が≫

最近家族や近親者による凶悪な殺人事件が報道されることが多くなっている。

もともと日本では殺人事件が身近な人々の間に発生することが多い。親族殺が近年急に増加しているわけではないが、身近な人の間の事件が増えているという印象を持つ人が多い理由として、最近殺人事件の総数が減少傾向にあり、そのために殺人全体における親族殺の比率が上昇したという背景があげられるのではないだろうか。

犯罪についての報道は最近むしろ多くなっているから、その中で比率が次第に高まっている身近な人の間の殺人事件が人々の関心をひくようになったのであろうが、この種の犯罪の対策が今後日本の犯罪を減少させていく上で重要であることは疑いない。

日本人の場合、強いストレスが加わるとその反発として生ずる攻撃性が他者よりも自己に向かいやすい。このことは、ほとんどの欧米諸国や他のアジアの国々と比較して他殺率は低いにもかかわらず、逆に日本の自殺率は極めて高いことからも明らかであろう。自殺は犯罪心理学的には他殺と基本的に異なるものではなく、ただその対象が他者か自己かであるかという点が異なるものと考えられる。


≪絆重視する心性が逆に≫

他殺の場合においても全くの他人よりは比較的身近な人を選ぶのは、やはり自殺の場合と同様のメカニズムが働くためであろう。日本人の場合にその攻撃性が自己に向かいやすく、また他者の中でも家族など近親者に向かいやすいということは明らかであるように思われる。

これは必ずしも日本人が自己や近親者を憎悪しているというわけではない。実態はむしろ逆であり、日本人の場合には身近な人に甘え、依存する傾向が強いのである。この、身近な人との絆(きずな)を重視する心性は、強いストレスが加わった状況では、しばしば逆に相手に対する攻撃的感情としてあらわれることになる。近親者への殺意は強い甘えの感情が極限にまで達した結果生ずることが多いのである。

最近足立区で発生した事件では家族が非常に仲が良く、どうしてあのような残虐な事件になったのか不思議に思うという意見が多かったようである。この事件は無理心中事件であるから甘えによる攻撃的感情だけで説明することはできないだろう。

心中事件の多くは最初は一人の自殺願望から生じ、次第に発展してくるものである。自殺を考えた時に自分ひとりだけが死ぬのは淋(さび)しく空しいから親しい家族に一緒に死んでもらいたいという気持ちになりがちである。また自分が死ぬと家族(特に親)を悲しませることになるだろうからそれを避けるために家族を殺害しようという考えになる。こうしたネガティブな思考は、自分が家族の一人を殺害した場合に残された家族はやはり悲嘆にくれるであろうし、それに加えて殺人者の遺族としての汚名を背負って生きていかなければならないという憐憫(れんびん)の情から更に犠牲者を増やすことになるのである。こうして本来は一人の自殺ですむはずの事件が多くの家族を巻き込んだ大量殺人へと発展することになるのである。犯罪学ではこの現象を拡大自殺と名付けている。


≪家族の孤立にも要因≫

以上のように日本の親族殺人は仲が悪くとも良くとも発生する可能性があるわけである。これら親族間の犯罪の基盤には強い自己中心性と支配欲があるだろう。自分の利己的感情をコントロールできないまま、家族や近親者への殺害に至っているわけで、こうした身勝手な行動はいかなる意味でも正当化することはできないであろう。

こうした事件の続発を防ぐためにはどういう方策が必要なのだろうか。

日本で心中事件にみられるような親族殺の比率が高いのは自他の境界が明らかでなく、家族を自己の一部あるいは運命共同体のように思っていることから生じてくるものであろう。家族であろうとなかろうと、互いに人格を持った一人の人間であることを認め合い尊重することが何よりも大切なことであろう。


犯人や家族が孤立した状況で親族間の殺人事件が生じやすいという事実にも目を向けるべきであろう。日本の場合に同居家族以外の親戚(しんせき)との関係は欧米や他のアジア諸国よりも疎遠であると言ってよいだろう。地域社会も崩壊しつつあり、かつては共同体意識を支えてきた職場もその機能を失いつつある。

近親者間殺人を未然に防止するためには、本人を孤立させないように家族が注意することはもちろん、家族もまた社会との接点を失わないような努力が必要なのである。


【正論】犯罪心理学者 聖学院大学客員教授・作田明(さくた あきら)
  1. 2008/03/26(水) 06:00:55|
  2. 幸福になりたい
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イージス艦衝突で露呈

イージス艦衝突で露呈した防衛省の“危険な”体質



海上自衛隊イージス艦「あたご」による漁船清徳丸との衝突事故は、時間がたつにつれ、海上自衛隊側の無茶苦茶、出鱈目ぶりが露わになってきている。

そもそも、漁船が少なからずいる海域を全くの自動操舵で突き進むとはどういうことか。漁船の方が曲芸のように回避してくれると思っていたのか。結局、12分前に清徳丸の灯火を見つけながらも、衝突の1分前まで自動操舵を続け、事故は起きた。
説明が二転三転する防衛省

一体、見張り員が「12分前に灯火を発見」後どのような対応がなされたのか。そのときの状況はどうだったのか。衝突の瞬間、艦長は仮眠をとっていたことなどが、だんだん分かってきたが、まだ事故が起こった当時の全容は明らかになっていないのではないのか。

あたごの見張り員が清徳丸に気付いた時間についても、防衛省の説明は二転三転している。海上幕僚監部は事故当日の19日午前10時、海上保安庁の聴取が始まる前にあたごの航海長をヘリコプターで呼び寄せ事情聴取を行い、「漁船発見は2分前」と報告を受けた。これをもとに石破茂防衛大臣は午後5時からの自民党部会で「漁船の発見は衝突2分前」と説明した。

ところが実は、石破さんが自民党部会で説明する直前の午後4時18分ごろに、防衛省の海上自衛隊は「実は2分前ではなく、12分前だった」と把握していたようだ。自民党部会に向かう段階では、石破さんは海上自衛隊から知らされていなかっただろう。


防衛省の隠蔽体質が明らかに

石破さんには、夜8時半ごろに知らされた。しかし、その夜11時の海幕防衛部長から記者団への説明は「2分前」のままだった。結局、翌20日午後17時からの自民党部会で、防衛省幹部が「12分前だった」と説明を行った。

「12分前に発見していたのになぜ回避できなかったのか」という批判が高まる中で、増田好平防衛事務次官は25日の会見で、12分前との報告を受けたのは「20日昼頃、断片的に上がってきたのはそのくらいの時間」としていたが、さらに26日夕方、防衛省の豊田硬報道官は「2分前より以前に承知していた可能性がある」という趣旨に変更した。

こうした二転三転する説明からも、海上自衛隊の狼狽振り、とにかく不利な真実をなるべく隠したいという隠蔽体質が非常に露骨に表れている。

こうした中、防衛大臣の責任追及が野党から厳しく求められ、石破防衛大臣の辞任を求める声が、野党からもマスコミからも強まっている。

さらに、石破防衛大臣が事故後ヘリコプターで当事者たちを集めたいたことについて、石破大臣は当初、海上保安庁の了解を得て行ったことだと説明していたが、実際は、了解を得ていなかったということが明らかになった。


石破大臣辞任を党利党略に使うな

海上自衛隊は加害者であり、それを取り調べているのが海上保安庁だ。その加害者側が、取調べをしている海上保安庁に無断で当事者を集めて話をしたということは問題であり、ここであらためて石破大臣の責任が強く追及されることになるだろう。

今週末終わるであろう今国会の主要な議題は、予算と予算関連法案の採決だ。だがその国会で、予算関連法案の問題よりも、石破防衛大臣を辞任させるかどうかという問題の方が大きくなっている。

予算は衆議院を通せば問題ないが、予算関連法案は参議院を通らないと成立しない。もし参議院が約束通り3月末までに否決してくれないと、ガソリン税はいったん25円下がるという事態を迎える。そこでもし与党が強行採決すれば、野党が参議院で“意趣返し”をすることが考えられる。つまり、3月末までに否決をしないだろうという恐れが十分にある。

おそらく野党は石破大臣の辞任を求めてくるだろう。与党も、公明党などが、辞任という意向を示しはじめた。自民党の中にもそれに同調する動きがある。

だが僕は、石破大臣の辞任が予算関連法案を通すための“材料”に使われることに反対である。石破さんの首と予算関連法案を天秤にかけて、予算関連法案を何とか上手く通すために石破大臣を辞任させるという、党利党略に使うことが見え見えだ。


優先されるのは事故の真相究明

当然、今回の「あたご」の衝突事故に関する石破大臣の責任は重い。しかし、彼が今やるべきことは、衝突事故の真相を究明することではないか。

おそらく、真相究明をした後に石破さんは責任を取って辞任するだろう。真相究明する前に「辞めろ」ということはいかがなものか。こうした国会の裏側をマスコミも知りながら、何も書かずに「辞任、辞任」と騒ぎ立てている。

もちろん、石破さんの責任は重いので、彼は真相究明をした後に責任を取るべきだし、さらに、石破さんのやろうとしている防衛省の構造改革はもう無理だろう。

僕は、石破さんという人物をよく知っている。今自民党の中で、防衛大臣という職に、石破さんをおいて適任者はいない。石破さんは精一杯頑張っている。それは認める。しかし、石破さんは“悪すぎる船”に乗ったのだと思う。

できれば彼に、防衛省をとことん根底から改革してほしい。しかし、それを言うと、石破さんは「アイツは自分の延命のために防衛省改革を主張している」と痛くない腹を探られることになる。石破さんには気の毒だが、やはり彼は真相究明をしたところで、責任をとるべきだと思う。


イージス艦の本当の過失とは

今回の衝突事故に関するイージス艦の過失は、まず何よりも、衝突事故を起こして2名の行方不明者を出したということだ。しかも、発見から衝突に至る12分間、乗組員たちが適切な作業をしていなかったことは明らかだ。

もし適切な作業をしていれば、12分前に灯火を見つけて、当然衝突を回避する努力をしたはずだ。努力もせずに、衝突1分前まで自動操舵を続けていた。これは、何もしなかったということだ。

今回の事故では、防衛省、海上自衛隊の傲慢さが見えてくる。「民間は勝手に避けろ。我々は堂々と突っ走るのだ」という傲慢さだ。

さらに、今回のような事故が起きれば「一体自衛隊は何を守るために活動しているのだ」ということになる。本来、自衛隊が守るべきものは国民の命であるはずだ。国民の命も守れない自衛隊の存在理由とは何なのだ、という根源的な問題になる。

どうもその後の展開をみていると、海上自衛隊は防衛省側にいかにも官僚的に機械的な判断、報告をし、しかもそれが狂っている。自分たちが大変な罪を犯してしまったという責任や後ろめたさが全くない。


深刻な防衛省の危機管理体制

さらに、石破大臣は、事故後関係者たちを集めて、相談をした。だが防衛省は今回の事故において、当事者でもあるが“被疑者”の立場でもある。その大臣が、取り調べる側の海上保安庁を差し置いて、“被疑者”の海上自衛隊に事情聴取をするとは、問題である。本当はそんな意図がなかったとしても、口裏を合わせるための相談をしたと疑われても仕方ないだろう。

このような責任はやはり石破大臣がとるべきだといえるだろう。しかし、何よりもまずは真相究明が第一である。真相究明をやり遂げて、国民が納得したところで、責任をとるべきだ。

24日の「サンデープロジェクト」に石破さんを呼び、話をした段階では、僕は彼に「辞めろ」とは言わなかった。だた、「真相究明をしろ」と言った。しかし、状況が変わってきた。24日の段階では、僕はまだ石破さんが構造改革をやってもよいと思っていた。しかし、今はもうそれは難しい状況だ。

今の防衛省の最大の問題は、「マニュアルができていない」ということだ。つまり、危機管理体制が全くできていない。もちろん、衝突してしまったこと自体、危機管理がなっていないと言えるのだが、「事故が起こってしまった時にどうするか」という危機管理体制が全くできていない。指揮系統もバラバラだ。

衝突事故そのものもひどいが、衝突事故が明らかになった以後の海上自衛隊のとった行動が、「自衛隊という組織の構造」としてはより深刻だと思う。


有事に脆弱な体質を露呈

この一連の動きをみると、これは「あたご」だけの問題ではなくて、自衛艦のほとんどが「あたご」と同じことをやっているのではないか、という疑いが極めて強くなってくる。「あたご」だけがこんなに無責任で傲慢なことをするはずがない。どの自衛艦もやっているから、「あたご」もやったのだ。

自衛隊は「有事」をいったいどのように考えているのか。衝突相手が漁船だったが、あれがテロリストである可能性も十分にあり得るのだ。

今回の事故での最大の教訓は、防衛省の“構造改革”が待ったなしの状況であることが露呈したということではないだろうか。




田原総一朗の政財界「ここだけの話」
田原 総一朗(たはら・そういちろう)
  1. 2008/03/25(火) 06:00:17|
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日銀総裁空白の異常事態

日銀総裁空白の異常事態 世界に取り残されるニッポン


サブプライムローン破綻問題が、当初ほとんどのエコノミストたちが想像し得なかったほど非常に深刻な事態に陥っている。

アメリカはサブプライムローン破綻対策として、ブッシュ大統領は、減税など様々な手立てを打ち出し、約16兆円投入するということを宣言している。米連邦準備制度理事会(FRB)は18日、主要政策金利であるフェデラルファンド(FF)金利の誘導目標を0.75%引き下げ、年2.25%とすることを決定した。それにも関わらずNYダウもドルも下げ続けている。



サブプライム問題で危機に瀕する米経済

ついに、アメリカの証券大手ベアー・スターンズ社が倒産の危機に瀕し、JPモルガンが買収するという事件も起きた。また、すでに業界内では名前が明らかになっているのだが、ベアー・スターンズ社よりもはるかに規模の大きい2つの金融機関が破綻の危機に瀕していると言われている。

サブプライムローン破綻という、バーチャルの金融危機が、実物経済、現実の経済を非常に揺るがせ、今や少なからぬエコノミストが、世界の基軸通貨としてのアメリカドルが崩壊する可能性すらあると言っている。

ダウ安、ドル安の影響で、日本円も100円を切り、90円台になる可能性が少なからずある。東証の日経平均株価も、ついに1万2300円台で推移している。このままでは1万円を割る可能性も少なくないと言われている。



なぜ日本経済がダメージを受けるのか

日本のサブプライムローンによる損失については、欧米諸国に比べると桁違いに少ない。全部ひっくるめても約1兆円と言われている。それに対してアメリカ、ヨーロッパでは、サブプライムローンに関わる様々な金融商品もすべて合わせると、その損失はすでに100兆円、200兆円に及ぶと言われている。

本来ならば、日本はアメリカの株価に対してそれほど騒がれないはずである。しかし現実には、アメリカの株価が去年の7月以来8パーセント下落しているのに対し、日本はすでに27パーセント下落している。

なぜ、サブプライムローンの被害が少ない日本の株価がこれほど大きく下落しているのか。なぜ、日本の経済がこれほどダメージを受けているのか。これは、サブプライムローン破綻の問題とは直接は関係のない日本固有の問題だと、僕は考えている。

小泉内閣が発足したとき、日本の株価が1万1000円台だった。今とほぼ同じだ。小泉首相(当時)が構造改革を叫びたて、郵政の民営化を実現したときから株価がぐんと上がり出した。1万4000円になり、1万6000円になった。

これは、構造改革によって、日本が変わるということを期待して、外国人の株主がどんどん日本の株を買いだしたのである。日本の株価は一時、1万8000円にまで達した。日本は長いデフレ不況から景気が確実に回復し始めると思われた。



海外から見た「JAPAiN(ジャペイン)」

ところが、2007年7月の参議院選挙で自民党が大敗し、まるでそれが契機のように株価が下がり始めた。イギリス・ロンドンのエコノミスト誌が「JAPAiN(ジャペイン)」という特集を組んでいる。「困惑する国」、「苦悩する国」という意味だ。この特集によれば、民主党が大勝したのは、ばらまき政策のためであるという。

農家一戸あたりに金を提供するとし、その額約1兆円。子育て手当てとして2兆6000億円。そして、年金の基礎年金の部分を全て税金でまかなう、しかも消費税は上げない、と言った。こうした金の総額約13兆5000億円。これをエコノミストは、「非常識なばらまきである」と言っている。民主党を抵抗勢力と決め付けている。

要するに、「小泉元首相の構造改革を逆行する時代が始まった」と外国人株主は判断し、そこで一斉に日本株から逃げ出した。つまり日本売りが始まった。

僕は、日本の経済事態は劣化も悪化もしていないと考えている。外国人株主が日本から逃げていくのは、むしろ日本に対する厳しい激励ではないかとすら思っている。「方向が違うぞ。とるべき方向を誤っている」という痛烈な指摘だと捉えている。

民主党が大勝し、安倍元首相が退陣し、そして、福田首相が登場した。福田首相はダボスで、「日本は自由主義の国であり、世界の資本がどんどん入ってきているし、日本からも出て行く」と、開国宣言をした。日本は自由主義経済であり、構造改革を続けるという宣言をしたのだ。

ところが、実態はどうか。構造改革とは全く逆の動きをしている。



鎖国体制を強める福田政権

福田首相がダボスで宣言しているまさにそのときに、実は、国土交通省は、羽田空港運営会社にオーストラリアの資本が約2割入ったと知るやいなや、羽田・成田を中心とする日本の主要空港に外資が参入する枠を3分の1以下にするという法案を提出した。つまり、福田首相の言葉とは逆に、鎖国体制を強めとしているのだ。

自民党の中にも、解放・開国とは逆行する議員たちの存在が目立ってきた。日本の株安は、こうした動きに対する外国人株主たちの異議申し立てだと思う。

今の日本の国会を見ていると、外国人たちは全く理解できないのではないかと思う。国会は相変わらず日銀総裁を誰にするかということで、もたつきにもたついている。参議院は民主党を中心とした野党が多数で、民主党の了解を得られない限り、自民党の提出する案は否決される。それが分かっていながら、自民党は具体的に民主党と話し合いをしようとしていない。

武藤敏郎総裁を提案したときにも、自民党の幹事長も政調会長も官房長官も全く動いていない。唯一民主党と交渉しているのは自民党の大島理森国対委員長で、それに応じているのが、民主党の山岡賢次国対委員長だ。

山岡さんが国対委員長になったのは、山岡さんは小沢一郎民主党代表の信頼が厚く、小沢さんと連絡がとりやすく、すぐに結論が出せるからという背景があった。しかし、大連立騒動以後、小沢さんは決断する力を失った。民主党の中で決断する場所は小沢さんから離れて、しかもどこにもない。



反対だけでは国会は回らない

民主党は、「ノー」と言うことでやっと一致できるという、悪い意味の野党になってしまった。道路特定財源や暫定税率の問題にしても、「ノー」という以外に何の方策も持ち合わせていない。自民党もその民主党に対して何の戦略的対応もしていない。

こんな姿を見せつけられたら、外国人たちが、「日本は一体何をしているのか」と思うのは当然だ。日本の株価が今下がっているのは、日本の経済が劣化・悪化しているからではなく、外国から見て、日本の政治が何をしているのか理解不能な状態に陥っているからだと思う。

日銀次期総裁に関して、もしも小泉さんが首相ならば、民主党に下駄を預けたと思う。下駄を預けたら民主党はきっと疲労困憊した。本当は民主党だって武藤さん以外提案する人がいないはずだからだ。

民主党が元財務事務次官の武藤敏郎・日銀副総裁の昇格案に反対すると、自民党は黒田東彦アジア開発銀行総裁(元財務官)を総裁にしようとした。しかし、黒田さんが日銀総裁になると、アジア開発銀行総裁のポストが中国に取られると、外務省が嫌がって拒否した。

次に政府は、渡辺博史国際金融情報センター顧問(元財務省)を総裁にしようとした。ところが今度は財務省が、ランクが違う、年次が違う、若すぎるということで拒否した。

結局、政府が提出した元大蔵事務次官の田波耕治・国際協力銀行総裁を総裁に充てる案も、衆院では同意されたものの、野党が多数を占める参院で不同意となった。これによって19日の福井俊彦総裁の任期切れに伴い、戦後初めて日銀総裁が空席となった。日銀法の規定に基づき、福井総裁は19日、政府が上席の副総裁に任命した白川方明・京大院教授を20日以降の総裁代行に指名するという異常事態に陥っている。



持ち駒がなくなった福田政権

今や、政府側には持ち駒がない状態だ。小泉さんが首相ならば、むしろ民主党に下駄を預けることで解決をはかって、自民党ペースを取り戻そうとしたと思う。福田さんにはそういう意思、気力が全く感じられない。

参議院で予算関連法案をあげなければならない。年度末までにあげないと暫定税率が期限切れでガソリンが1リットルあたり25円下がってしまう。

さらに、オフショアの問題もある。1986年12月に、円の国際化のために東京オフショア市場が創設され、ここで活躍する諸外国企業は免税措置がとられた。この免税措置が3月いっぱいで切れ、有税になる。

参議院の委員会での実質審議は、もう完全に時間切れだ。小泉さんならば、むしろ民主党の対案を飲む。その対案の説明をさせて、そこで逆に自民党が異議申し立てをする、という方法をとったと思う。

かつて「つなぎ法案」が衆参議長の斡旋で取り下げられ、民主党はその条件として「年度末までに結論を出す」と約束した。ところが、「サンデープロジェクト」に出演した鳩山由紀夫幹事長は、「衆議院で自民党が乱暴な採決を行ったために、この約束は反故になったと我々は捉えている。だから年度末までに結論を出すとは考えていない」という見解を述べた。そうすると、4月になだれ込む。つまり、暫定税率やオフショアの問題など、すべてが期限切れになってしまう。それをどう考えているのか。



洞爺湖サミットは環境サミットにはならない

今の国会は“小学校の運動会”にしか見えない。自民党も民主党も戦略らしきものがまるでない。そして、虚しいエゴイズムのぶつかり合いをしている。こんなことが続けば続くほど、外国からの日本に対する信頼は揺らぐ。揺らぎに揺らいで、すぐに見限りをつけられるだろう。

こういったことに対する恐怖心、危機感が、日本の政治家たちにない。呆れたものだと思う。

洞爺湖サミットは環境サミットになると言われているが、環境などはテーマにならない。何といってもサブプライムローンの破綻問題がテーマになる。世界を襲おうとしている大恐慌に対する準備を全力ですべき時なのだ。一番の問題は、アメリカに一刻も早く公的資金導入の決断をさせるべきだ。この公的資金は100兆を上回るものになるだろう。

今、公的資金を投入することは、つまりブッシュ政権の失政を認めることになり、そうすると秋の大統領選挙で共和党のマケイン候補が非常に不利な立場になる。だから今はまだ決断できない、などと言っているが、もうそんなことを言っている段階ではない。大統領選挙まで待てば世界の実体経済が音を立てて弾けてしまう。

日本はEUなどと組んで、アメリカに一刻も早く公的資金投入するように圧力かけるべきなのだ。しかし、このような世界の重大な問題と、今、日本の国会で論じられていることにあまりにも格差がある。日本の国会ではあまりにも些細なことを論じ合っており、世界の大問題に日本は何も関与していない。情けない限りである。



福田首相はサミットまでもたない可能性も

民主党は「4月解散、5月選挙」と言っている。4月解散、5月選挙になれば、自民党は負けるだろう。このままでいけばその可能性はある。福田さんはサミットを仕切れないまま終わってしまう可能性もあるということだ。

今の福田政権では国民も不安でどうしようもない。だから株価もどんどん下がって、円も100円を割る。先日の「サンデープロジェクト」では、円が90円を割るという可能性も指摘された。しかし、政府は為替介入すらしていない。ユーロなどに比べると、まだ円安の局面だと見ているのだと思うが、このまま放置すれば大変なことになる。

この事態に政府は一刻も早く対応し、強いメッセージを出さないと、本当に世界の中で完全に日本は取り残されることになるだろう。



田原総一朗の政財界「ここだけの話」田原 総一朗(たはら・そういちろう)
  1. 2008/03/24(月) 06:00:53|
  2. 世界と日本
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【ウェブ時代 5つの定理】その5 大人の流儀

 ■若い世代への信頼と励まし

 創造性を育(はぐく)み、イノベーションを生むにはどうしたらよいかについて、新著「ウェブ時代 5つの定理」(文芸春秋刊)のエッセンスをご紹介しながら考えてきたが、今日が最終回である。

 第5定理は「大人の流儀」である。

 私たちは今、ウェブ時代とも言うべき未曾有の大変化の時代を生きている。インターネットは、特に若い世代の「時間」と「距離」と「無限」についての概念を揺さぶり、人々の世界感覚を進化させている。そんな「時代の大きな変わり目」においては、異なる価値観を持つ世代の間で軋轢(あつれき)が起こりやすくなる。しかし、世代間の不毛な対立ではなく、世代間の融合や相乗効果を追求しなければ、未来の創造は難しい。

 そのときにいちばん大切なのは、成熟した大人の側こそが若者たちに向け、心が萎(な)えるような言葉を浴びせるのではなく、前を向いて生きる希望を生み出すような素晴らしい言葉を発し続けることである。そのためには、新しい技術や新しい事象を前にして、何歳になっても前向きにそれを面白がる気持ちを持ち続けなければならない。そしてオプティミズムに満ちた未来志向のわくわくする言葉で、若者たちを勇気付け、鼓舞するのである。言葉の力を信じて、大人たち一人一人がそういう営みを続けていくことによってしか、創造的な社会は生まれないと私は思う。

 《君たちの時間は限られている。その時間を、他の誰かの人生を生きることで無駄遣いしてはいけない。ドグマにとらわれてはいけない。それでは他人の思考の結果とともに生きることになる。他人の意見の雑音で、自分の内なる声をかき消してはいけない。最も重要なことは、君たちの心や直感に従う勇気を持つことだ。心や直感は、君たちが本当になりたいことが何かを、もうとうの昔に知っているものだ。だからそれ以外のことはすべて二の次でいい》

 これは、2005年夏、スタンフォード大学の卒業生向け講演で(アップル創業者兼CEOの)スティーブ・ジョブズが行った名スピーチの一節である。

 《偉大な仕事をする唯一の方法は、あなたがすることを愛することだ。まだ見つかってないなら探し続けろ。落ち着いちゃいけない。まさに恋愛と同じで、見つかればすぐにそれとわかる。そして素晴らしい人間関係と同じで、年を重ねるごとにもっとよくなる。だから見つかるまで探し続けろ。探すのをやめてはいけない》

 これらの言葉を含むジョブズの講演内容がネット上で公開されるや、まずは全米で大反響を呼び、数々の翻訳とともに世界に広がり、世界中の若者たちからの熱狂的な支持を集めた。多くの人々が、こうした言葉をエネルギー源に、未知を楽しむ心を知らず知らずのうちに養っていき、そこから新しい創造が生まれるのだ。

 《私はただただ、20代そこそこで会社を始める才能のあるやつらの熱狂的なファンなのだ》

 これは、シリコンバレー随一の目利きベンチャー・キャピタリスト、マイケル・モリッツの言葉だ。まだ何者でもない若い才能に対する絶対的な信頼、熱に浮かされたような期待感がこの言葉にはよく表れている。

 どんな人も最初は何者でもない。グーグルの創業者も普通の大学院生だったし、ジョブズがアップルを始めるときに何の実績があっただろうか。「世界を変える」新しいものを作り出す人は、何者でもないところからいきなり出てくる。それをシリコンバレーの大人たちは皆、過去の経験から骨身にしみてわかっているから、若者たちとの接し方が他の地とは、特に日本とは明らかに違う。

 若者たちに志向性の追求と個性の発揮を奨励し、挑戦を促し、真摯(しんし)な失敗に対してはおおらかな態度で接していく。そんな成熟した「大人の流儀」がイノベーションを育む苗床(なえどこ)となるのだ。



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梅田望夫



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【ウェブ時代 5つの定理】その5 大人の流儀
  1. 2008/03/23(日) 06:00:43|
  2. 科学・技術
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【ウェブ時代 5つの定理】その4 グーグリネス 自発性に導かれた「時間」

 第4定理は「グーグリネス」である。グーグリネスとは、ウェブ時代をリードするグーグルという会社の気質やグーグルらしさを表す言葉だ。

 グーグルの経営・組織・文化における独自の論理は、ここまで取り上げた「アントレプレナーシップ」「チーム力」「技術者の眼(め)」が、高いレベルで統合された最新で最良の実例と言える。

 私はシリコンバレーで数多くの会社を見てきたが、その中でグーグルは、これまでの会社とは「種」が違うのではないかと思うほどの、突然変異とも言うべき「変な会社」である。

 こんな奇妙で不思議な会社は、かつて存在したことがない。そう断言できる。しかし、こういう会社がビジネス社会の中心に躍り出てきたことが、情報化社会たる現代の特質なのであろう。

 ≪いま、世界は(以前と)本当に違う。それは、君たち一人一人が世界中のどんなことについても「情報を得る力」を持ったからだ。私が学校に通っていたころと、本当にまったく違う世界だ≫

 これは数年前にグーグル創業者の一人、サーゲイ・ブリン(1973年生まれ)が高校生向けに行った講演での言葉である。80年代と比べて今が「本当にまったく違う」のは、誰もが「情報を得る力」を持ったからだと述べた。考え方の根底には、シリコンバレーに脈々と流れるリバタリアニズム(自由至上主義、第3回参照)がある。

 結果の平等を求めるのではなく、すべての人がすべての情報にあまねくアクセスできる環境を整備し、機会を均等に与えるという考え方が貫徹される。「世界中の情報を整理し尽くす」という同社のミッションは、すべてこのためにある。

 知識欲を「人間の最も基本的な要求」ととらえ、世界中の一人一人が「情報を得る力」を持ち、よりよい教育を受けてより賢くなれば、それが世界の知力・知性を高めることになる、ひいてはそれが「世界をより良い場所」(make the world a better place=第1回参照)にすることになる。これがグーグルの基本理念である。

 ≪1からすべて命令してほしいなら、海兵隊にいけばいい≫

 これはCEO(最高経営責任者)エリック・シュミットの言葉だが、グーグルが徹底的に重視するのは、自発性に導かれて使われる「時間」の価値だ。グーグルは、飛び切り優秀で積極的な人材を世界中からひたすら集め、自由度の高い仕事環境を用意する。これは、リナックスをはじめとするオープンソースの世界の成功から強く影響を受けた経営思想である。

 オープンソースとは、ソフトウエアのソースコード(人が記述したプログラムそのもの)をネット上に無償公開して、世界中の不特定多数の開発者が自由に参加できる環境を用意し、そのソフトウエアをさらに開発していく方式のことだ。

 オープンソースの世界では、経済的な取引という概念も、雇用関係を基盤とする組織的指示命令系統も存在しない。つまり他者に何かを強制する道具立てがまったくないのだ。にもかかわらず、参加者の自発性だけに委ねられて、大きな価値を生み続けている。インターネットが私たちに突きつけている現代の謎の一つである。

 19世紀から20世紀にかけての鉄道や自動車や飛行機の発明は「人間固有の肉体」の限界を大きく拡張し、私たちは「物理的距離」を人類史上初めて克服した。そしてインターネットと情報は、肉体ではなく頭脳の限界を大きく拡張するから、21世紀は「頭脳の拡張」の世紀となる。

 となれば、行き着く先は「時間」。「時間」だけが私たち一人一人に平等に与えられた貴重な資源だ。グーグルは「頭脳の拡張」の世紀のリーダーであるとともに、私たちが自発的に過ごす「時間」からしか創造的イノベーションは生まれない、という思想の信奉者なのである。

 グーグルはこのやり方を貫き、創業からわずか9年でトヨタ自動車の時価総額と肩を並べた。しかも、社員数はトヨタの約20分の1にすぎない。



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梅田望夫



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【ウェブ時代 5つの定理】その4 グーグリネス 自発性に導かれた「時間」

  1. 2008/03/22(土) 06:00:32|
  2. 科学・技術
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【ウェブ時代 5つの定理】その3 技術者の眼

■「流れ」と「未来」見通す能力

 第3定理は「技術者の眼(め)」である。21世紀のビジネスは、科学と技術を抜きにして考えることはできない。これまでに述べたアントレプレナーシップとチーム力を、その根底で突き動かしているのが「技術者の眼」だ。

 シリコンバレーの中核には、科学や技術を愛する人たち独特の価値観が深く根付いている。起業家やエンジニアばかりでなく、経営者、投資家や金融機関にまで、文系的な管理者的な論理とは全く異なる精神が貫徹されている。

 特に2つのことが重要である。1つが西海岸特有のカウンターカルチャー(伝統的・支配的な文化に対抗する文化)から強い影響を受けた思想である。もう1つが「大きな技術の流れに逆らっては絶対にダメだ」という考え方である。

 ≪カウンターカルチャーは中央集権化された権力に軽蔑(けいべつ)心を示し、まさにそれが、リーダー不在のインターネットの世界だけでなく、PC(パソコン)革命に対しても哲学的基盤を与えた≫

 これは、1960年代から70年代のカウンターカルチャー思想を牽引(けんいん)した作家スチュアート・ブランドの言葉である。

 70年代にシリコンバレー発で始まったPC革命から、現在進行中のウェブ進化に至る思想的基盤には、技術こそが反中央、反権威、アンチ・エスタブリッシュメントの個をエンパワー(力を付与)するものだという考え方が根強くあった。

 その力を起爆剤に現状を破壊し、フロンティアを切り開こうというのである。事実、PCは誕生当初から、個が技術を使って権威と対抗できる革命的な道具として産声を上げたものだ。

 個人一人一人の自由を最大限尊重すべきだとし、国家や体制に縛られるのを嫌うリバタリアニズム(自由至上主義)に、個の力を強めるパーソナルテクノロジー、管理されないネットの自由を信奉する考え方が結びついたのだ。

 日本では、「コンピューターは体制側の管理のためのツール」として長くイメージされてきた。そのため、コンピューター社会は監視社会や管理社会とイコールだと発想する人が多い。「PCやインターネットは、個に力と自由を与えるもの」という文脈で読み解かないと、シリコンバレーの「技術者の眼」はなかなか理解しにくい。

 体制側を支える技術の意義はもちろん大きい。しかし、社会全体がそれだけを志向するのでは、「世界を変える」爆発的な創造力は生まれない。シリコンバレーという地は、イノベーションという実体を伴った「カウンターディスコース」(対抗言説)を、アメリカ社会に投ずるという役割を果たしているのである。

 ≪インターネットが負けるほうに賭けるな≫

 これはグーグルCEO(最高経営責任者)のエリック・シュミットの言葉である。

 何かの課題に直面したときに、インターネットが存在しなかったときの方法で物事を解決しようとしても、時代の大きな流れの中では、いずれ必ず負けてしまうという意味だ。

 シリコンバレーにおいては、技術が未来に引き起こす大変化を見通せる力が最も重要視される。そしてその見通しをもとに「技術の大きな流れに逆らっては絶対にダメだ」という考え方が社会に浸透する。現代においては、インターネットこそが「圧倒的に大きな技術の流れ」だという共通認識ができている。

 「大きな技術の流れ」に逆らって何かを達成し、短期的にどうにかなっても、長期的には成功を持続できない。そんな経験則が、社会の隅々にまで存在する「技術者」系リーダーたちのすべての意思決定の前提として、根強く存在している。そんな基盤があってこそ、グーグルのようなスケールの大きい創造的イノベーションが生まれるのである。

 シリコンバレーが数十年の間にここまで繁栄した要因は、技術が発展する先を見据えて、そこに賭け続けてきたことだ。オープンな環境ゆえに、世界中から集まった優秀な技術者たちによって成し遂げられた偉業だと言っていい。



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梅田望夫



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【ウェブ時代 5つの定理】その3 技術者の眼

  1. 2008/03/21(金) 06:00:02|
  2. 幸福になりたい
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【ウェブ時代 5つの定理】その2 チーム力

「その道のプロ」の相乗効果

 創造性を生むための第2定理は「チーム力」である。どんな優れた人も1人では何もできない。自分にできないことができる人たち、自分にない能力を持った人たちと、どうチームを組んでいかに仕事をするか。ここに社会として組織として創造性を生むカギがある。

 ベンチャービジネスの成功というと、日本では、突出した力を持つカリスマ経営者によるワンマン支配といったイメージが強い。確かに、アップルのスティーブ・ジョブズ、マイクロソフトのビル・ゲイツなどを筆頭に、コンピューター業界をリードしてきたベンチャー創業者にはカリスマ的存在感を持つ人物が少なくない。個性的な創業者が会社の「顔」となり、大きな成功を収めた暁に、神格化されて語られる側面も事実ある。

 しかし、突出した一握りの天才だけがユニークな創造性を発揮して、革新的な技術や製品、新しいビジネスモデルをつくり出したわけではない。そこにあるのはワンマン主義ではなく、むしろ透徹したチーム力である。

 「強い力を持った個」同士がスポーツ感覚で戦略的にチームを組んで疾走するイメージ。異分野の「その道のプロ」が組むことで相乗効果をたたき出す世界だ。

 ≪Aクラスの人はAクラスの人と一緒に仕事をしたがる。Bクラスの人はCクラスの人を採用したがる≫

 この言葉をシリコンバレーでは格言としてよく耳にする。Aクラスの人は、自分を向上させたいと常に思っているから、自分より優れた人と一緒に働きたいと考えるが、Bクラスの人は実力に不安があるから自分よりも劣った人を採用してしまう、という意味である。チーム編成においてはAクラスの連鎖を作るべし。イノベーションを生むには、選りすぐりのチームを組成するところから始めなければならないという経験則が、この言葉の背後にある。

 日本のビジネス社会では、「チームワーク」という概念に「優秀な個」という前提が自動的には含まれていない。「メンバーの痛みを理解できる」「困っている他のメンバーを助ける」といった相互扶助の概念と紙一重になりがちだ。「守りの仕事」ならばそれでいいが、そのチーム発想からは「攻めの仕事」における爆発的な創造性は生まれにくい。

 ≪世界を変えるものも、常に小さく始まる。理想のプロジェクトチームは、会議もせず、ランチを取るだけで進んでいく。チームの人数は、ランチテーブルを囲めるだけに限るべきだ≫

 これは、サン・マイクロシステムズ共同創業者のビル・ジョイの言葉である。マイクロソフトもアップルもグーグルも、すべては数人のチームによる熱狂的な没頭から始まった。「世界を変える」イノベーションを生む一番大切なことは、資金でも設備でもなく、情熱を持ったわずか数人の力を結集して爆発させる「チーム力」にある。

 高いモチベーションを持続する少数精鋭からチームが成り立ち、目標を共有し、会社や作品の成長を目指し、チーム全員が同じ目標に向かって走る。その幸福感、高揚感から、創造性やイノベーションが生まれるのだ。

 「いい成績を取って、いい大学に行って、いい会社に入りなさい」という古い価値観のゴールにある「日本のいい会社」に入ることで、それができるのだろうか。「いいチーム」感覚で楽しく仕事をしていくことができるのだろうか。現代の日本の優秀な若者たちは、そんな懐疑の心を持っている。だから未来に閉塞(へいそく)感を感じるのだ。

 自分の志向性にぴったりとあった領域を発見し、そこで徹底的に自助努力をしてその道のプロになる。そしてAクラスのプロ同士がお互いに尊敬し信頼し認め合い、ケミストリー(相性)の合うメンバーで一体感をもち、チームでスポーツをするように一緒に仕事をする。そんな楽しい「仕事の世界」が日本にももっと増えてくるといい。

 こうした「チーム力」の文化を積極的に社会全体に育(はぐく)んでいくとき、一人一人の個に、今を生きるエネルギーがわいてくるのではなかろうか。



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梅田望夫



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【ウェブ時代 5つの定理】その2 チーム力
  1. 2008/03/20(木) 06:00:45|
  2. 科学・技術
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【ウェブ時代 5つの定理】その1 アントレプレナーシップ

「世界をより良き場所に」

 人や組織、地域や国には、それぞれ長所があり、短所がある。私が住むシリコンバレーもその例外ではない。しかしこの地の、こと未来志向の「攻めの仕事」となったときの創造性の爆発的発露、無から有を生み出す発想力やフロンティア開拓の冒険心には、本当に目を瞠(みは)るものがある。その点に関してだけは、世界中のどの地にも存在しない不思議な力がここにはある。

 創造性を育(はぐく)み、イノベーションを生むにはどうしたらよいのか。「現代を生きる」とは。私たち誰もが、そんな難題に真剣に取り組まなければならないということだ。特に先進国では、創造性の発揮以外にサバイバルの術(すべ)はないのである。

 私は1994年にシリコンバレーに移住し、この地での生活も今年で足かけ15年になる。その間に、さまざまな人が発する「未来を切り開く言葉の数々」と出合い、この地にみなぎる創造性の秘密を垣間見てきた。

 社会や組織で創造性を生む秘訣(ひけつ)に5つの重要な要素があると気付き、新著「ウェブ時代 5つの定理」(文芸春秋刊)にまとめた。今日から5日間にわたり、そのエッセンスをご紹介したい。

 第1定理は「アントレプレナーシップ」(起業家精神)である。新しい物事に対する積極的意欲、リスクを引き受けて果敢に挑む姿勢、不確実な未来を楽しむ精神の持ちよう、飽くなき探究心や冒険心や没頭、変化を求める心、自分の頭で考え続ける力、始めたら徹底して勝つまでやりぬく気持ち、といった要素がこの言葉には含まれる。

 ではいったいなぜ、この地に「アントレプレナーシップ」がみなぎるのだろうか。

 ≪シリコンバレーの存在理由は「世界を変える」こと。「世界を良い方向へ変える」ことだ。そしてそれをやり遂げれば、経済的にも信じられないほどの成功が手にできる≫

 これはアップル創業者兼CEO(最高経営責任者)のスティーブ・ジョブズの言葉である。

 シリコンバレーのリーダーたちは「世界をより良き場所に」(make the world a better place)という気宇壮大な言葉をカジュアルに使う。新しいテクノロジーをより多くの人が利用することで、「より良き社会」を生み出せるという信念が根底にある。

 自分たちの努力で未来を「より良き場所」にしよう。そしてその進展に寄与する大事を成し遂げれば、経済的にも信じられない成功を伴ってよい。「善意で世の中をよくしよう」でも、「己の欲のために働こう」でもないこの独特の論理によって、シリコンバレーの爆発的な創造性は担保されてきたのである。

 日本にもかつて、松下幸之助の「水道哲学」という考え方があった。道端の水道の水を通行人が飲んでもとがめられないのは、量が多くて価格があまりにも安いから。自らの使命は、水道の水のごとく電化製品を安価に無尽蔵に、貧しい日本にあふれさせることだという考え方だった。

 シリコンバレーの「より良き」の一部には、間違いなくこの「水道哲学」的な要素がある。加えて、個人の可能性を広げることは善という考え方がある。「個人をエンパワー(力を付与)する道具を、世界中に広めることは絶対的な善である」という信仰にも近い考え方、それがこの地にはあふれている。

 「アントレプレナーシップ」を支える「常軌を逸した熱」は、「やりたいことをやる」という気持ちと、「社会をより良くしたい」という思いの組み合わせによって持続する。お金が最優先事項では長期にわたってそういう熱が持続しない。倫理性と経済性が融合したシリコンバレーのそんな独特の論理が、仕事の面白さを倍化させ、強い「働く意欲」の源になっている。

 米民主党の大統領候補指名を争うオバマ氏も「世界を変える」(change the world)という言葉を繰り返し発するが、リーダーによる熱のある素晴らしい言葉は、若者たちを鼓舞して奮い立たせる。社会のリーダーたちの言葉の重みは、日本社会が考える以上に大きいものなのである。



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梅田望夫



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【ウェブ時代 5つの定理】その1 アントレプレナーシップ
  1. 2008/03/19(水) 06:00:36|
  2. 科学・技術
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『ウェブ時代をゆく』について

■好きなことを貫くために

 「シリコンバレーに引きこもって1年半、書き上げるのに2000時間以上かかりました。2万件以上の感想をすべて読みましたから」

 感想とは昨年2月に刊行した『ウェブ進化論』(ちくま新書)に対するもの。「ウェブ進化を理解するための思考の枠組み」をつづり、現在、18刷37万部と売れている。この著書を貫くオプティミズム(楽天主義)に関する賛否両論を含め、膨大な読者の反応が届いた。「批判はウエルカムです。批判から日本の現状が見えます。感想を読めるのはベストセラーになったからこそできたチャンス。これが私の知的な財産になります」と常に前向きだ。

 こうして読者からの反響を反芻(はんすう)してできた本書は、副題に「いかに働き、いかに学ぶか」とあるように、仕事論であり人生論だ。

 「日本の若い人たち、まじめで優秀な人たちが、未来に不安と閉塞(へいそく)感を抱いています。こんな豊かな国、私たちの世代よりも豊かなのにです。これはおかしいぞ、と思いました。時代と日本の社会があっていない。昔の流儀の大人たちと若い人との価値観に明らかに齟齬(そご)がある」

 幕末から明治を生きた福沢諭吉が「一身にして二生を経るが如(ごと)く」といったが、「ウェブ進化」の激動期を生きるわれわれも同様だという。明治維新の前と後ではものの見方に食い違いがあるのは当然だろう。

 「好きなことを貫くことこそ競争力を生む」と著者はいう。ウェブは未来を大きく広げてくれる。そのために自分を知る「ロールモデル(お手本)思考法」などを紹介。「けものみち」を歩くためのスキルをいかに身につけるのかなど、「悩みながら生きてきた」著者の個人的な経験を交え、丁寧に説く。

 「ウェブというとてつもない道具を積極的に使っていけば、今より幸せになるんじゃないか。つきつめていえば個の志や能動性、自助の精神さえあれば新しい可能性が開けると思います」


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この言葉が未来を切り開く!


梅田望夫



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【著者に聞きたい】梅田望夫さん『ウェブ時代をゆく』
  1. 2008/03/18(火) 06:00:57|
  2. 幸福になりたい
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ネット性善説

 司会 食わず嫌いではいられないと。

 梅田 新聞社も最初、ネットは好きじゃなかった。でも、新聞社としてもネットとの関係を深めていき、リアルの新聞との共存の道を少しずつ見付けていくと、ああ、こういうことだったんだと理解するときがくる。

 無制限の情報というのはネットに乗っけておいて、新聞は新聞で俯瞰性みたいなものでたとえば攻めていくとか。

 新聞社のサイトがあることで、俯瞰性の価値にお金を出す人がいなくなることはないと分かってみたり。

 産経新聞もネットと共存する方法を見つけようとしていますね。そういう意味で、「法廷ライブ」も含めて御社のさまざまな試みはおもしろいし、間違いなく業界のトップランナーだと思いますよ。お世辞ではなく。

 司会 恐縮です。

 梅田 実際はあまりにもいろいろなものが早く進むので、不安な気持ちというのが払拭(ふっしょく)されないんだけれども、ぼくの直感では、案外、ある時に、ネットっていい物なんだという風にいろいろな人が思う事件があるんじゃないかと。

ネット性善説

 司会 梅田さんは、ネットを使ううえで成功するのには、不特定多数を信用することが大切だとおっしゃっていた。しかし、日本人は不得意なジャンルではないかなとも思えるんですが。

 梅田 それは技術なんですよ。何事も練習しないと。ゲームのルールを勉強しないと。定跡を覚えないといい将棋が指せないのと同じです。それをすっ飛ばすから“炎上”などという事態に陥る。

 僕は、ネット上でどう振る舞うと不特定多数とうまくやっていけるのかということを体で分かるようになってきました。ずいぶん時間的な投資をしてきましたからね。だから全然怖くないんです。やってはいけないことが分かっているから。

 これは、リアルの世界でも同じですが、やってはいけないことをやると怖いことになる。ブログの上にわっとくる“炎上”というのがあるが、普通にやればそんなことは起きない。

 本を読んでそれに対する感想をブログに書いたり、日常生活でこんな楽しいことがあったと書いたりとかしたときに、そんなところに変なことを言ってくる人はいない。

 しかし、イデオロギーとか政治にかかわることとか、あるいはアイドルをけなすとかはだめ。

 それを経験すると分かってくる。たとえば、イデオロギー、政治にかかわる過激な発言を慎むとか、アイドルや熱狂的なファンがいる人に対して不用意な発言をするとか。意味もなく偉そうにするとか、属している組織をバックにして人を見下すとか。そういうのはダメ。でも、人間として当たり前のことを普通にやっていて、やらないほうがいいことをやらなければ、ほとんど何も起きません。

 司会 自分なりにルールを作ってゆくと。

 梅田 それから書き手の立場にもよります。個人はたたかれにくい。一方で、組織はいろいろなことがある。

 個と言いながら組織というケースもある。例えばですが、渡辺竜王のブログで、彼はちっとも悪いことを書いてないのに、かつて将棋界となんか嫌なことがあった人が、彼に対して難癖つけてくるというようなことですね。

 出版社でも、こんな本出している出版社はけしからんと思っている人があるとすると、出版社の編集者という立場で何か言うだけで、わっとくることがある。

 ところが、純粋な個人というのはそんなに責められる要因がないから、自分の考えを言うのは大丈夫な場合が多い。

 佐藤 悪質な方もいるんでしょうね。

 梅田 棋聖とか竜王とかは半公人なので、将棋界の過去をすべて背負っているみたいなところがあるから、ややリスクがあります。

 しかし、あきらかに理不尽なことを言ってくる人については、他の読者が淘汰(とうた)してくれます。そんなことを言うんじゃないと言ってくれるとか。

 司会 反論するとエンドレスになったりする。しかし、相手と普通の会話ができるということを前提に、ネチケットというのがありますね。また、他の読者が淘汰してくれるというのは本当で、良貨が悪貨を駆逐するようなところがありますね。

 梅田 一つは、お金が絡まないからなんですよ。つまり、悪というのは、やはり、お金が動いているところに集まりやすい。

 しかし、誰かがブログで意見を書いて、そこにいいコミュニティーがあって、何か楽しそうだなというところを、あえて壊しにいくというのはコストに合わないですよね。何かやってやろうという人にとってね。もう一つは、悪はこそこそやるものなんですよ、基本的には。オープンなところでは、悪は連鎖していきづらい。

 一つの例が、コンピューターソフトをみんなで作るオープンソースというもの。不特定多数の人によって作られるんですが、大体、便利なものが作られる。作る人も、足りないところはどんどん改善してほしい、便利になって誰かが使ってくれるとうれしい、というような意識を持っている。リナックスなんかが代表例ですよね。

 ところが、コンピューターウイルスっていうのがあるでしょう。しかし、それはみんなで作るというのはないんですよ。

 佐藤 なるほど。悪事は1人でやるわけですね。

 梅田 そうなんですね。善意の例をもう一つ挙げると、みんなで作る百科事典のウィキペディアというものがあります。あれは基本的に間違いが入ることもあるんだけれども、もめる大きなところは、イデオロギーとか政治とか人物評価ですよ。

 例えば、物理学についてのキーワードとかいって、そこにわざと違う数式を書き込む人はいないんですよ。しかし、たかだか6~7年で、全世界のありとあらゆることが解説されている百科事典が、ある程度のミスはあるけどできちゃった。

 ところが、誹謗(ひぼう)中傷百科事典というのはないんですよ。梅田望夫というのがいますと。ぼくは47年生きてきて、いろいろと恥ずかしいこともしてきたかもしれないが、誰だってそうですよね。しかし、こいつはこんな悪いやつだという誹謗中傷のデータベースを作ろうと言った人はいない。これを集積しましょうとは誰も言わない。言った人がいたとしても、オープンな場所でやろうとは誰もしていない。だから、その一事をもって「人間は素晴らしい」と言うつもりなんかないんだけれど、案外捨てたもんじゃないねと、ネットと関わっていて思うことが多いです。

 司会 性善説にたっているわけですね。

 梅田 思いつきでこういう主張しているわけではなく、ネットの上って、そういうことを感じることが多い、という経験則によっているんです。

 佐藤 ネットでブログが炎上して、収拾にかなり苦労されている話なんかをよく聞きますけど。時間が大切だということでネットを使う人が多いのに、逆にそれが時間のロスになってしまい、無駄なことをやっているんじゃないかと、そういう気がしちゃうので二の足を踏んでしまっている面がありますね。僕なんかは遅れ気味なのかもしれないけれど。

 あと、ネットは匿名がほとんど。しかし、新聞で意見を言うときは実名じゃないですか。ぼくなんかはその方が自然と思うんですけれど。ネットは言いたいことを言いやすいんでしょうか。ネチケットが大事なんですよね。

 司会 ネットでは、顔が見えない分、文章からにじみ出す人間性というものがありますね。米長先生が引退を表明したとき、王将戦の挑戦者決定リーグ戦に臨んだ佐藤棋聖が、着物を着てはおりはかまで正座して時間前に待っておられたのを見て、背広で来られた米長先生があわてて、「着物を持ってきてくれ」と言われたといういい話を聞いたことがあります。

 佐藤 ぼくなんかにとって、米長先生はプロになる前からのあこがれの先生ですから。そういう先生と指せるというだけで、対局のたびに本当にわくわくしていました。そういう先生が引退されるラスト3局のうちの1局がぼくだったんで、自分をすべてぶつけてみたいなと。自分としては普通の当たり前のことをやったんですが。まあ、将棋界は、そういうところが残っているというか、あるんですよ。

 司会 それはいいですよね。急速に日本の良さが失われているといわれる中で、そういうのは。

 佐藤 ぼくなんかも、偉大な先輩がいて自分があるわけですから、そういうものを大切にしていきたいというのはありますね。

 司会 棋聖もぜひ、今年はブログデビューされたら。

 佐藤 興味はありますが、面倒くさがり屋なので。ぼくはネットの速報ニュースも見るときもあるんですが、やはり、もともと新聞で読む習慣が付いているのでなかなかスタイルを変えるのは難しいです。将棋の方はよく変えるんですが。ネットを見ると、ついつい何度も速報を見てしまって、時間を費やしてしまうじゃないのかって、つい二の足を踏んでしまうんです。

 梅田 中毒性があるんですよね。

 佐藤 ぼくなんかはやはり、ある一定時間で読める新聞のほうがいい。いまただ、本当に特ダネでもなんでも時間に関係なく出してしまう時代。だいぶ変わるのでしょうね。

 司会 そうですね。しかし、激動、節目の時代に生きているというのは幸せなことだなとも思います。

 梅田 棋聖の心の中での大切なことの優先順位に従って、ご判断されればいいことと思います。ただ将来の可能性として「いろいろあるかもしれないけど面白そう」と頭の片隅にとどめていただければと。

 佐藤 うまくネットを使えば、個人でも歴史や文化を作ることができるということがよくわかりました。ぼくらは将棋では棋譜を残しているので、自分たちで歴史を作っているという意識があるけれど、それは皆さん、一人一人、個人がそうだと思う。一人一人が強い意識を持って生きてられるというのはすばらしいです。少しでもそういうような所を伝え、残していけるように僕は将棋を指していければいいと思います。



ウェブ時代をゆく ─いかに働き、いかに学ぶか (ちくま新書 687)ウェブ時代をゆく
─いかに働き、いかに学ぶか


梅田 望夫



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梅田望夫氏と佐藤康光棋聖が語る
  1. 2008/03/17(月) 06:00:54|
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常に”冴え”の状態を保つために

名局の条件

 梅田 ところで、今日はぜひ、お聞きしたかったことがあります。いわゆる名局はどうやって生まれるのか。名局を生み出す棋士の心構えというのはどんなものなのかということをおうかがいしたいのですが。

 佐藤 そうですね。名局の条件ですよね。自分が思うに、大きな勝負というのが一つあります。予選の対局とタイトル戦では、ファンの注目が違う。やはり、ファンの注目度が違うと、棋士もそうですが、気というものが違う。昔は大一番に名局なしといわれていましたが、そういうところで自分の力を発揮できるのが真のプロだと思うんで、まず大きな対局、大きな勝負ですね。そういうところが一つありますよね。

 あとは雑念がないというか。やはり、棋士は将棋が好きで入っています。子供のころから打ち込んでいますので、純粋。昔は将棋だけで生活していくのは大変だったが、先輩方のご努力で、社会的地位が向上して、将棋を指して生活できる環境が整った。すべての力を将棋に集約できるようになった。純粋に盤上だけに向かってゆけるということがひとつあるのかな、と思います。

 司会 棋士の心構えのようなものはありますか?

 佐藤 いい棋譜を残すというのが前提にあるんですが、やはり、勝負事ですので相手を倒さなければならない。そういう気迫、気概ということがあります。最高の状態で相手を倒すということを目指すが、人間ですので、常にそういう状態で対局できるかどうかは分からない部分もある。お互いに十分な気をもって、最高の時にぶつかれれば申し分ない。

 それに加えてぼくの場合は感性、というか感覚が研ぎ澄まされていないと、名局はできないという気がします。

 研究は普段からしているんですが、実際、真剣勝負となって長時間座っていると、将棋の場合は無限のゲームということもあるんでしょうが、ふと違うことを思いついたりするんですよ。人間ですから。そういうのがどんどん出てくるときが、感覚が研ぎ澄まされているときなんですよ。

 梅田 すると、思いもよらない手が出てくる。

 佐藤 将棋には過去のデータ、定跡、常識がありますが、それだけを学んでいればいいかといえば、当然そうではなく、その先を考えていないと勝負には勝てないし、進歩もない。


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梅田 望夫



 しかし、なかなかそういうのは簡単に生み出せない。まあ、将棋以外の世界でもそうなんでしょうけれど、過去の経験の積み上げは膨大で、莫大(ばくだい)なエネルギーの集積です。それを超えたものを生み出そうとすると、ぼくの場合は、今まで自分が培ってきたものを、絶えずこうなんていうのか、アンテナを張っている状態でないと。繰り返しになるが、感覚が研ぎ澄まされている状態でないと過去は超えられない。

 将棋は勝負どころがどこにあるか分からないときがある。普通の人は、将棋の勝負どころは終盤と考えるでしょう。最後に詰む、詰まないという局面です。まあ、そこで間違えれば負けですからそうなんですが。

 しかし、プロ同士はわずかな差で戦っていて、どこで勝負がつくかがなかなか分からない。思わぬところで勝負がつくということもあるが、戦っているうちに、どこで形勢が逆転したのか分からないまま指していることがある。それが最初の20手目の局面であるときもあるし、本当に投了する最後の直前のときだったりもする。

 これを予期するためには、やはり鋭敏な感覚が不可欠。逆に、これがないとチャンスをつかめない。だから、お互いに感覚を研ぎ澄まし、お互いにピンチを切り抜けた結果が、名局となる。テンション(緊張)が上がるというのとはちょっと違うのかもしれないが、そういう感覚が名局を生み出す土台だと思います。

 司会 今日はだめということもあるんでしょうか。

 佐藤 それはありますね。ぼくはよく、冴えがある、ないという言い方をするんですが。常に冴えの状態を保ちたいとは思っています。

 将棋は未知の局面になりますので、冴えがないときは凡戦になってしまうことが多い。年間平均40~50局とかで、いい将棋を指せたと思うのは2~3局あるかどうか。反省点は必ず出てくるし、1局指せば新しい発見がある。しかし、反省点は増える一方で、課題も増える一方です。

ネットと格差社会

 司会 将棋には、究極の人知が凝縮されている。昨年夏に産経新聞と日本将棋連盟の主催で、小・中学校将棋団体戦をやったんですが、将棋連盟の米長邦雄会長があいさつで「負けた人を思いやりなさい」とおっしゃっていた。相手に敬意を払いなさいと。そういうことが体現される世界というのはすごいなあと思いました。そうした将棋界とネットがつながりつつあるという話でしたが、ネット、ITというとどうしても日本では、ライブドアとか村上ファンド事件とかが連想されてしまい、ネガティブな部分が増幅されがちです。

 梅田 まだ、歴史が浅いんです。将棋が約600年ということに比べると、PCが始まって30年ちょっと。ネットがでて13年くらい。グーグルが誕生して9年と。まだ、新しいんですよ。しかし、その割には破壊力を持っている。

 鉄道ができたとき、自動車、飛行機がでてきたときも大きな変化があった。大体、19世紀から20世紀初頭。最初はいろいろとあった。自動車も事故が多かっただろうし、初期はどうしても、新しい道具を使いこなすのに、定跡みたいなものがない。そのうち、交通ルールがだんだんできてきたので、車に乗る人は増えても事故は減った。事故が起きたから自動車社会が悪いという人はもういないわけで、時間が解決してきた。

 ネットは、進歩のスピードが速く、能力が破壊的。だから、怖いという感じを持つのは普通だと思う。ぼくなんかからしてみれば、「ネットはちょっとかわいそう」という感じを受けるが、仕方ないことかなとも思う。

 佐藤 その点、今の形になって約600年になる将棋とは根本的に違うのかもしれません。将棋は誰かが作ったゲームなんだけれども、ぼくは神が作ったゲームかなとも思うときがあります。実はその歴史ははっきりしていない。起源はインドのチャトランガだといわれていて、紀元前4世紀ごろにできて少しずつ変化して日本にきて、今の将棋の形になったのは約600年前といわれる。しかし、誰が最初に作ったのかは分かっていない。文献や何かで解明されていない。

 しかし、約600年も前に作られたものを、プロが毎日毎日、一生懸命取り組んでいる。一種、おかしい現象なんですよ。1000年も前のことを研究している人なんてたくさんはいないじゃあないですか。それをプロ棋士が延々とやっているということは、人が作ったのかどうか。神格化するわけではないが、ネットとはスピード感が違います。

 司会 将棋と違って、ネットは進化のスピードが速すぎて、それについていける人といけない人の間で、格差が生まれるのではないですか。

 梅田 格差という議論をするときに、価値観が少ない感じがしています。何々試験に合格するのが最終目標で、そのために勉強する人としない人みたいな。それで格差でしょうというような。

 さきほど、ネットは自分が興味持ったものを入れないと答えが返ってこないと申し上げましたよね。

 自分は将棋が好きだというときに、将棋の高速道路があるのだから、乗ればどこまでも行ける時代です。

 しかし、将棋に関心がなければ乗らなければいいだけですよね。最後まで行かなければならない理由はどこにもない。人間の数だけ、嗜好性や価値観がある。

 ある人に「何が好きですか」と聞くときに「一言で」と言うと同じような感じになるかもしれない。ところが、「100語くらいで自分を表現してくれ」というと全員違うでしょう。ネットはその違いを増幅してくれるわけです。

 30人しかいないクラスなら、自分と知的関心が近い人はいないかもしれない。これだけ知が細分化してくると。しかし、1000万人だとすると、近い人に出会う確率は増える。知らない人と出会うことになる。同じ興味を持っている人が、まったく会ったことはないんだけれど北海道にいるとか。

 司会 当然、国境も超えますね。

 梅田 将棋などは言語を超えますので、世界に広がると思っています。そうなると、自分はこういうところに美を感じるというような、極めて感性が近い人を探し出すことがいずれはできる。すでに、嗜好性みたいなものをそれぞれが自分に問い、それをのばすネットという道具が無償で行き渡っているのだから。

 自分の嗜好性と合った人と出会うことができ、交流が生まれれば、新しい評価が生まれるかもしれない。

 物理的に閉じられた空間の中では理解されず、信頼関係が作れなかった人が、嗜好性が似ている人の中では、「この人すごい人じゃないか」となるかもしれない。オープンソースの世界では、もうそういうことが始まっている。

 司会 ネットでは自分と同じ嗜好性を持った人を簡単に探し出せ、価値観を広げることができると。

 梅田 日本では、偏差値がどうのこうのとか、いい大学出ているとか、いい会社に入っているとか入っていないとか。途中でやめた人はもうだめとか、格差議論のときに、価値観が一面的なことが多いように思う。

 日本の社会における価値観というのは、ネットみたいな道具がまったくない、非常に非効率だった時代に、大量にいる人を低コストで分類するために作られたものが多い。一つの尺度、記憶力がいいとか、与えられた問題を解くのが速いとか、そういう一つの尺度で、人を分類することを社会が求めていた。高度成長期は、一人一人の個性を聞いている暇もないし道具もなかったと。ところが、みんながそれぞれ違う能力を持っているということは明らかですよね。そんなことは。

 ネットというのは、そのひとつひとつの固有性を発見する道具にもなるし、伸ばす道具にもなる。それから、似た固有性を持つ人の出会うという道具でもある。

 すると、おおざっぱな言い方をすると、みんなが好きなことをしてメシを食っている世の中。その間にはまったく優劣がない。

 価値観が一つであれば、ネットを使って勉強している人はどんどん行くが、そうでない子はいかない、だから格差ですねとなる。でも、それは単純すぎるでしょう。

 ネットというのは全員使うわけですよ。これから生まれる子供は全員使う。自分の固有性に合わせて伸びてゆくほうに導いていかなくちゃいけない。



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梅田望夫氏と佐藤康光棋聖が語る
  1. 2008/03/16(日) 22:59:28|
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学習の高速道路を抜けるとけもの道

梅田望夫氏と佐藤康光棋聖が語る
(2)学習の高速道路を抜けるとけもの道





 梅田 やはり、人間への関心というのは大切なことでしょう。特に、佐藤棋聖、羽生善治二冠(王座・王将)世代以降の棋士たちとお付き合いをしていていつも思うのですが、ここには、日本人の中でも極めて良質な人たちが集まっているという感じを持っています。ハイエンドのファンの方々は棋譜の芸術性、将棋の戦いに奥深さということになるんでしょうが、棋士のスター性に興味を覚えるファンもいる。例えば、歌舞伎でも、芝居の深いところまで全部分かっているファンだけに来てくださいということでは、お客さんが集められませんよね。将棋も一緒だと思う。

 佐藤 それから、ファンとの接点もそうですが、データベースが整備されたことが大きい。最近は、その日に指したものも見ることができますし、過去のものもそう。いまだと、30年分くらい、7万局弱くらいのデータベースが将棋連盟にもできたんですよ。

 昔は将棋を研究したり勉強するときに、自分の記憶だけが頼りだった。昔、こういう将棋があったんで、こういうのを調べてみようと。自分の記憶だけが頼りだったんですが、いまはパソコンで局面や人名などを指定すれば30年前の将棋でもすっと出てくるんです。そういう意味では、だれでも強くなる環境が整っている。

 羽生さんが「ITとネットの進化によって将棋の世界に起きた最大の変化は、将棋が強くなるための高速道路が一気にしかれたということだ」と述べられたと、梅田さんのご著書に書かれていましたが、僕らの修行の時代と比べても、勉強する環境が整いつつあると思います。

 梅田 「学習の高速道路」という表現は本当に面白くて、羽生さんから将棋の世界でそうなんですよと教えてもらって、ブログに書いた。そうしたら、たくさんの反応があって、どんな分野も同じですと。一番おもしろかったのが折り紙。

 佐藤 折り紙ですか?

 梅田 「折り紙の世界もまったく同じ高速道路ができているんです」と書いた人がいるんです。折り紙というのはもう、カブトとか鶴とか折っている場合ではなく、本気でやっている人は何でも折ってしまう。折り紙に対して創造性を発揮する人はたくさんいて、どうするとどういうものが折れるのかというのは日進月歩らしい。それで、折り紙の好きな人は、過去からの折り方を一気に高速道路で学んで、それでさらに、創造的な折り紙作品を作るんだと。

 佐藤 意外ですねそれは。しかし、今の時代、高速道路ができて勉強は早いが、そこから先は大渋滞ということが梅田さんのご著書に書かれていましたね。将棋界でもプロで上位を争うのはそこの世界。高速道路を進んで大渋滞をどう突き抜けるか、高速道路を途中で降りて「けもの道」を自分でどう切り開いてゆくか。

 梅田 将棋の質について言えば、トップ棋士の中でも、佐藤棋聖は「けもの道」というか、独自の道を模索されているように見え、そこが魅力的です。

 佐藤 棋士として、高速道路に乗って最新の型を模索するべきなのか、高速道路を抜けて自分の型を模索すべきなのか。その兼ね合いが難しいのですが、最近は、プロとしての個性を出したいという気持ちが強くなってきました。ぼくの場合、人と同じ事をやるのが嫌いなだけかもしれませんが。(笑い)

コンピューターVS棋士

 司会 よく、コンピューターが1億手を読むとしたら、佐藤棋聖は1億3手を読むといわれます。瞬時に最善の手を選ぶということだと思いますが。

 佐藤 もちろんそんなに読みません(笑)。今はコンピューターソフトが強いので話題になっています。コンピューターはしらみつぶしに読みますが、人間にはやっぱり、読まない強さというか大局観というのがありまして。その部分で勝る場合が多い。その背景にあるのは、いままで自分が勉強して培ってきたもので、感性というのですかね。コンピューターにはまだないものです。しかし、人間にはそういう部分があるんです。非常に人間的なところが。

 しかし、この前、渡辺(竜王)さんがコンピューターソフトと対戦して話題になりましたが、コンピューターは日々進化していて、これからも強くなるので、コンピューターソフトと人間の対決というのは注目される。

 渡辺さんが対戦したボナンザというソフトは、1秒間に最高で400万手読むらしいのですが、棋士の強さはミステリアスなところがある。つまり、どのくらい強いか、数値化できないのではっきりとは分からないということです。

 しかし、これからは、トップ棋士の強さが数値化されるというか、はっきりとしたものではないが、ある程度は位置づけられる時代が来るのかなという気がしています。

 ここからは、僕の勝手な推論なんですが、1秒間に最高で400万手読むボナンザは、渡辺竜王戦で、持ち時間2時間のうち1時間55分使った。渡辺さんは1時間ちょっと。ボナンザは結局、負けたわけですが、ボナンザが読んだ手は、単純計算すると400万×1時間55分で、276億手。僕の認識だと、渡辺竜王は、276億手以上読む人だなということになるわけですよ。

 梅田 捨てている部分も含めて、という意味ですよね。

 佐藤 そうです。しかし、それだけ読んでもコンピューターは人間に勝てなかった。やはり、人間の感性の素晴らしさというものを感じました。やはり、プロ棋士はコンピューター以上に読んでいるんだなあと、自分でもびっくりしました。自分の推量の計算なんで実際は違うのかもしれないが、やっぱりプロ棋士は強いんだなあと。(笑い)

 司会 渡辺竜王からお聞きした話ですが、ボナンザと指すときに、コンピューターがどれだけのものかなと思ってやったけれど、そんなたいしたことないだろうと思ってやったら、これまずいと思ったとおっしゃってました。

 佐藤 意外と強いと。

 司会 そう。ちょっと気合入れ直さないと格好悪いことになると思って指し出してから、自分のペースになったとおっしゃっていました。

 しかし、将棋は取った駒を使えるということもあって、複雑なんでしょうね。

 佐藤 取った駒を使えるということで選択できる手は膨大になりますから。

 梅田 チェスよりも難しいですね。

 佐藤 ええ。しかし、チェスは引き分けが多い。4~5割は、トッププロがやっても引き分けになる。ところが、将棋はほとんど必ず決着はつきますので、ゲーム性が違う。勝ち負けが決まる可能性が高いゲームのほうが、コンピューターとしては得意なのかなとも思いますね。

 梅田 長く将棋を見つづけているファンの立場から言うと、勝ち負けよりも、その将棋がいい将棋かどうかの方が重要と思う。突き詰めていえば、棋譜の芸術性ですね。局面の均衡が続き、その裏には“1億3手”づつの読みがある。どちらかがばたりと勝ってしまうことがない均衡が美しく続いていく棋譜の魅力はすごいもの。僕の感じは、人間が感動する棋譜を生み出すところまで、勝ち負けということを超えて、一つの将棋の芸術性の美しさを考えるところまで、コンピューターは進化していけないのではないか。

 司会 興味があるのは、勝ち負けよりも美しさですか。

 梅田 仮に、コンピューターの性能が上がって、まれに勝つことはあるとしても、何度も見るに堪える意外性や芸術性が生まれるのかどうか。見る側からすると、羽生-佐藤戦は、何度でも鑑賞する価値がある。無から始まるわけですが、その1局というのは必ず固有の1局になって、個性がある。

 それを棋譜、7六歩、8四歩・・・という流れを追っていき、その1局の芸術性というのがきちんと解説される。十分な字数を使って解説されれば、勝ち負けを超える。トッププロ同士の対戦でも、凡戦と名局の違いが明確に表れると思います。

 司会 そこが将棋のおもしろさだと。

 梅田 大げさな話ですが、20世紀というのは自動車にしても、飛行機にしても、人間の肉体の限界を改善する技術が世界を牽引(けんいん)した時代だと思う。メーカーがしのぎを削って優れた自動車を造り、それを動かす石油をめぐって戦争が起きたりとか、そういう時代ですよね。

 そして、21世紀というのは、人間の脳の限界を超えようとしていく技術の時代で、それがITであったりインターネットだったりということになる。

 しかし、そうした技術の発展と人間の技芸をきわめる行為は別の次元の話でしょう。例えば、マラソン競技で1人だけ自動車で走る人がいて、先にゴールに着きましたといって、マラソンが面白くなくなるということはない。

 将棋も同じで、人間が有限の時間を使って1局の将棋を指す、2人の人間が脳を使って芸術作品を作るという、そういうことの意味みたいなものって、コンピューターが出てきてもあまり関係ない。

 まだ、コンピューターが弱くて、人間が強いという状況なので、コンピューター対プロ棋士の戦いには一瞬の話題性はあります。しかし、それで仮にコンピューターが勝っても「ああそうですか」ということです。

 つまり、棋士の指す将棋とコンピューターのそれとでは、目指すものがまったく違うわけで、強さを比べることに意味はないのです。

 佐藤 確かにそうかもしれません。



ウェブ時代をゆく ─いかに働き、いかに学ぶか (ちくま新書 687)ウェブ時代をゆく
─いかに働き、いかに学ぶか


梅田 望夫


  1. 2008/03/14(金) 06:40:38|
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ネットで目的にたどりつけるのは疑問を持つ人だけ

梅田望夫氏と佐藤康光棋聖が語る
(1)ネットで目的にたどりつけるのは疑問を持つ人だけ




 梅田 インターネットの面白いところは、情報の向こうに無数の人がいることでしょう。われわれは、どんなにがんばっても、1日に会える人は何人、知り合える人は何人と限界がある。将棋の世界でもビジネスの世界でも学校でも、非常に限られた人数の人としか知り合えない。しかし、インターネットは向こうに日本人が何千万人、世界中には億単位の人がいて、意外なことが返ってくる。そこがすごく面白い。

 佐藤 確かに、絶対に知り合えない人と知り合えるというところがありますね。脳が横につながるというか、広がってゆく感じですか。

 梅田 はい、そうです。しかし、ここが肝心ですが、ネットの情報というのは、何かを知りたいという気持ちが自分のほうにないと探せない。ネットの情報というのはそれこそ無限にありますが、何かを知りたいというテーマがある人にしか開かれていない。疑問や情報を持っていた人だけが目的の情報にたどりつける。そして、自分から行くと深いものを得られるというのがネット。検索をすることで、その向こうに「知」が広がる。

 司会 疑問や情報がない事柄はどうなりますか。

 梅田 確かにわれわれそんなにたくさんのことに能動的な関心がないわけです。私もネットでいろいろ調べますが、大好きな将棋や、仕事の専門に関係するIT(情報技術)のこと、経営のこと、自分が関心を持っている人のこと、それくらいで、もう時間がいくらあったって足りない。僕の場合、それ以外の世界についてはネットをあまり使わない。こちら側に知りたいという気持ちがない領域について、ネットはあまり役に立たない。

 だけど、世界で何が起きているんだろうとかいうことは知りたいでしょう。すると、新聞見ないと俯瞰(ふかん)性が得られない。土地勘がないところで、自分が何を知っていなければならないのか、という漠然とした要求を持って情報に対峙(たいじ)しようとしたら、雑誌や新聞などのパッケージにした情報がないと話にならない。つまり、ネットと新聞は対峙するものではなく、双方が補完し合うものだということです。

 司会 なるほど。

 梅田 昨日と今日とでは世界はこれだけ変わったという差分を用意して、紙面で提供しているわけでしょう、新聞というのは。ネットというのはそういう構造してないわけですよ。とにかく、過去からのモノは全部ありますと。蓄積されていきます。それでいま見えているのはこのページで、そこから自由にどこにでも行ってください、何か興味があるのであれば、キーワードを入れて検索してください。そうすれば出てきますという具合ですね。だから、自分が興味を持っていることについてはネットでどこまでも行ける。ところが、自分が何に興味があるかが分からなくて、でも、生きていくうえで把握しなければならないものをどうするか、というのはネット向きではない。だから、必ず両方残る。

 司会 ネットと紙媒体の双方が必要だという理由ですね。

 梅田 しかし、これまでは新聞や雑誌しかなかったから、ネットが出てきたときに、新聞は「自分たちがなくなっちゃうんじゃないか」と心配したわけです。少しは減りますよ、もちろん。新しいものが出てきたんだから。しかし、ネットという道具を新聞社も使えば、「法廷ライブ」みたいなこともできる。

 佐藤 「法廷ライブ」ですか?

 司会 産経新聞がネット向けにやっている企画です。法廷では録音も撮影も認められていないものですから、記者が手書きでやり取りを記録して、それをすべてネットで流すという企画ですが、ウェブサイトのアクセス数が跳ね上がりました。

 梅田 ネットは物理的な制約がないですから。それを若い人は求めています。たとえば、法曹の世界を志す若者たちとか、ある事件に興味があって、その裁判が今日あるんだということを知っていて、法廷の中で何が語られていたのだろうかと関心を持つ人たちには、最高のコンテンツですよね。

 佐藤 裁判のやりとりの詳細が全部、ネットで読めるんですか。

 司会 はい。

 梅田 かなりの量になると思いますが、それだけ長いやりとりを掲載すると、新聞はコストがかかりますでしょう。しかし、新聞の上には載らないのだけれど記者の方々はこれまで、そういう努力をされていた。しかし、それを捨てていたわけですよ。

 佐藤 なるほど。

 梅田 ところがネットの上はコストがかからず、物理的な制約もないので全文掲載できる。

 佐藤 記者の方が本当に伝えたいことを、好きな分量で掲載できるということですね。しかし、大変な量なのでしょうね。

 司会 1回当たり4000行くらいでしょうか。新聞紙でいうと、字だけで埋め尽くして10ページ分くらいになります。

 佐藤 それだけの量では、普段の紙面には掲載できませんね。

 司会 そうですね。しかし、情報量は圧倒的に多い。梅田さんがおっしゃるように、自分が興味を持っていればより深い情報にたどりつけるわけです。梅田さんの場合、大好きな将棋もそこに入るのでしょうが、当然、ネット上で将棋を指したりされるわけでしょう。

 梅田 いえ、ネットでは指しません。ぼくは、棋譜と解説や、ネット中継の結果をプリントアウトします。正座して盤に向かうんです。で、駒もいい駒を使う。ぼくはシリコンバレー在住ですが、あそこでそんな盤と駒を持っているのはぼくだけでしょうね。(笑い)

 佐藤 それは意外というか、やはり日本人ですねえ。

 司会 ネットの登場は、将棋の世界にも変化をもたらしましたか?

 佐藤 新聞はネットの出現で変わったということですが、将棋もそうですね。ネットができて将棋界の環境もずいぶんと変わってきた。ファンとの接点は、昔は新聞の観戦記がメーンだったんだけれど、そうするとどうしても将棋ファンの人しか見ない傾向が強かった。現在は、ウェブで同時中継をするようになって、将棋好きな人はライブで見ています。それ以外の将棋を知らない方も見ていただけるようになりました。ぼくの知り合いにも結構います。

 その棋士が何を昼に食べたとか、タイトル戦の前夜は何をして過ごしたとか、そういうことがネットに書き込まれるようになり、それを見ているのが面白いという人も増えてきました。将棋を知らなくても興味を持ってくれるような機会が増え、さらに新聞の観戦記を見るというきっかけにもなっている。そういう意味では相乗効果というのでしょうか。将棋界の裾野が広がったと感じます。

 司会 ブログをやられている棋士の方もいらっしゃる。

 佐藤 そうですね。最近特に、若手棋士はブログをやる人が増えてきています。私は不器用なのできませんが。

 司会 この間、渡辺明竜王とお話しする機会がありまして、竜王が負けると、ブログのアクセスがぐんと増えるとおっしゃっていました。

 梅田 負けた棋士が何を語るのかは興味ありますね。

 佐藤 いやあ、負けた将棋はなかなか書けないですよ。普通、将棋界の常識だと、勝った人が自分の将棋を書く。負けた人が率先してそれをするというのは、ちょっと普通できないですよね、特に棋士の場合。負けず嫌いが多いので、あまりそういうのを素直に反省して次に生かそうというのは、なかなかできない。彼は良くできた人だなと感心しますね。

 しかし、そういう記録が残っていくことは、それが将棋界の財産をつくることにもつながる。美しい棋譜を残すことが財産ですし。だから、負けた将棋も詳細に解説して、次に生かすと同時に、うまく正しく伝えていけるということは大切です。

 梅田 棋譜の芸術性を伝えるのは大切だと思います。将棋界というのはこれまで、将棋を普及させようというときに、将棋を強くするという視点でしか取り組んでこなかったと思っています。将棋をめぐる人々の関心の裾野は広いのです。

 しかし、見て楽しむ、強くならなくても、見て、その将棋を理解できるという水準に、多くの人を導くためには、教え方も違うし、強調すべき点も違う。僕自身が将棋大好きなんだけれども、そんなに強くないのと、指すよりも見ることに関心があったから、そういうことをいつも考えていました。

 芸術性があり、歴史と伝統がある将棋は、新聞社にとっては宝ですよ。

 司会 なるほど。

 梅田 いままでは紙面の物理的な制約があり、使える字数が少ないから、芸術性を伝えきれなかった。だから、ネットの登場は新聞社にとっても将棋界にとってもすばらしいことで、その芸術性を余すことなく伝えることができるし、新聞社のサイト側がすべてを用意しなくても、オープン性を担保してあれば、ファンの人がこの部分はこうなんじゃないかと言ったりすることもできる。

 ファンが勝手にやったことが検索エンジンにひっかかってきて、棋士や棋譜についてトータルに情報が増えていく。そうすると、いろいろな観点で、多くの人が関心を持つ機会が増える。さっき、棋士が何を食べたんだろうということに興味を持つファンがいるとおっしゃっていましたが、有名な加藤一二三九段がお昼に鰻重、夕食にも鰻重を食べたと書かれると、それだけで、ネットのうえでは大変な話題になる。加藤九段というのはカリスマ的な存在でいらっしゃるので。

 佐藤 ちょっと変わったところもある先生ですが(笑)。棋士は結構、変わったというか個性的というか、独特の感性を持っていますからね。


ウェブ時代をゆく ─いかに働き、いかに学ぶか (ちくま新書 687)ウェブ時代をゆく
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梅田 望夫



  1. 2008/03/13(木) 06:33:43|
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JAPAiN(日本の痛み)

■日銀総裁人事紛糾で経済低迷なら

 ≪無為無策を決め込む姿≫

 英エコノミスト誌(2月23日号)の「JAPAiN(日本の痛み、『JAPAN』と『pain』の合成)-世界第2位の経済国は落ち込んだままだ/その原因は政治にある」と題された記事は、度々、メディアで紹介され、反響を呼んでいる。これは、要するに、「日本の政治の質が劣悪だ」という趣旨の記事である。

 サブプライム・モーゲージ(信用度の低い借り手向け住宅ローン)の焦げ付きに端を発した国際経済の混乱を前に、「世界第2の経済大国」であるはずの日本は、無為無策を決め込んでいる。この記事からは、そうした落胆が伝わってくる。

 筆者は、「JAPAiN」記事の趣旨には概(おおむ)ね賛成する。それと同時に、塩野七生著『海の都の物語』の中の次の記述を思いだす。

 「資源に恵まれないヴェネツィアのような国家には、失政は許されない。それはただちに、彼らの存亡につながってくるからである」

 2000年以降、新興国と呼ばれているのは、中国、ロシア、インド、ブラジルであろうけれども、これらの国々には、もともと、広大な国土も資源もある。故に、これらの国々が一定の程度まで発展を遂げたとしても、何ら驚くに値しないであろう。しかし、日本は事情が異なる。「これだけ国土も狭く資源のない国が、まだ世界第2の経済大国といわれているのだから、本当は凄(すご)いことに違いない…」というのは、筆者の率直な感慨である。

 しかも、近年では、「経済大国・日本」を象徴するトヨタやソニーといった企業ブランドに加えて、料理やアニメーションの領域の「ジャパン・クール」が世界の注目を集めるようになっている。その点、日本は、確かに「凄い国」である。

 ≪スケールの小さな議論≫

 しかし、こうした立場の前提は、「時宜を得た統治」が適切に行われることである。現在、与野党を問わず日本の執政に与(くみ)する政治家には、前に触れた「失政は許されない」という切迫感は、どれだけ働いているであろうか。

 今期通常国会の焦点の一つは、揮発油税暫定税率の見直しであるけれども、民主党が唱える「ガソリン値下げ」云々という誠にスケールの小さい議論からは、そうした「切迫感」を感じ取ることは難しい。現下の景気失速懸念を前にして、それが有効な「処方箋(せん)」であるという説明は行われていない。

 加えて、「世界第2の経済大国」の金融政策を司(つかさど)る日本銀行の総裁・副総裁の人事が、実質上、「党争」の具にされているのは、誠に嘆かわしいことであるといえよう。民主党は、武藤敏郎副総裁の総裁昇格を軸とした政府案には、「財政・金融の分離」の観点から難色を示している。

 しかし、「財政・金融の分離」とは、平時の論理である。国際経済情勢が「暴風雨」の最中にある今、中央銀行総裁・副総裁を選ぶ基準は、「どのような出自・経歴の持ち主か」ではなく、「どのような手腕の持ち主か」ということ以外にはあり得ない。

 民主党は、現下の難局対応の手腕に疑問を感じるという理由で武藤副総裁の総裁昇格に反対するのであれば、その反対には理があるかもしれないけれども、「財政・金融の分離」という平時の論理に固執して反対するのであれば、それもまた、前に触れた「失政は許されない」という意識が民主党においては希薄であることを示す明白な証左となろう。

 ≪55年体制的な惰性か?≫

 無論、民主党が政府批判を専一とする「55年体制」思考の惰性の上で武藤副総裁昇格案に反対しているのであれば、それは、「国益」よりも「党益」を優先させた論外の沙汰(さた)と呼ぶ他はない。現在、民主党は、日本銀行総裁・副総裁の人事権を持たないにせよ、参議院第一党という立場に拠(よ)る「拒否権」を有している。民主党は、そうした権限に伴う責任をどこまで自覚しているのであろうか。

 もし、此度の日本銀行総裁・副総裁人事に絡む紛糾が経済低迷の歳月を再び到来させることになれば、筆者は、その経済低迷を「永田町不況」と呼ぶことにしよう。そして、筆者は、「民の竃(かまど)の賑(にぎ)わい」を消した「永田町不況」の責任を負うべき政治家、特に「党争」に平然と走った民主党政治家の顔ぶれを長きにわたって記憶に留めることにしよう。

 しかし、「永田町不況」こそは、「民の竃の賑わい」を実現するのを原初的な役割としているはずの政治家にとっては、最も避けるべきことではないのであろうか。

東洋学園大学准教授・櫻田淳(さくらだ じゅん)
  1. 2008/03/12(水) 21:30:38|
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