だから、日本が好き!

宇宙のなかの小さくて大きな島国

ライブのアグレッシブな醍醐味を堪能

齋藤孝の「3分間」アカデミー
これぞ究極の“ビジネスライブ” 「ワーキンググループ」活用法



NHK教育テレビに『にほんごであそぼ』という子ども向けの番組がある。もうかなりの長寿番組だ。その開始当初から、私は監修者として携わっている。スタッフの方々とのつきあいもずいぶん長い。

先日、この番組の企画会議が開かれたときのこと。2〜3時間にわたって知恵を出し合った後、そのまま全員で食事に出かけることになった。その食事に要した時間が、ざっと4時間。それでも感覚としてはあっという間だった。
“狩り”の快感を知っているか

特別なイベントがあったわけではない。今さら親睦を深めるといった間柄でもないし、局内では話せないような“別件”があったわけでもない。確かにお酒も飲んだが、メインはあくまでも「食事」のはずだった。

では4時間にわたって何をしていたのかといえば、企画会議の延長戦だ。会議室の2〜3時間では飽き足らず、延々とアイデアの出し合いを繰り広げたのである。もちろん強制ではない。誰かがふときっかけをつくったとたん、他の全員からとめどなくアイデアが噴出するようになったのだ。

オフィシャルではないし、気心の知れた仲間内だし、アルコールの勢いもあって、冗談半分に大胆な提案ができる。そのまま一笑に付されて消えていくアイデアもあるが、掛け合い漫才のように複数のアイデアが積み重なり、「実現したらおもしろそうだ」という具体的な企画にまで昇華するものも少なくなかった。

実はこの番組の企画会議は、毎回こういう感じである。顔を突き合わせたまま、時間を忘れて番組の話ばかりしている。もちろん苦痛ではなく、むしろ楽しみですらある。

プライベートな仲間と飲むのもいいし、仕事仲間とグチをこぼし合うのも悪くはない。だが、仕事仲間と仕事の話で盛り上がる快感に勝るものはない。それはちょうど、“狩り”に出かけるようなものだからだ。

世の中という“狩猟場”から、直感と経験を頼りに“獲物”を探し出し、いざ見つけたら全員で取り囲んで“モノ”にしていく。そんな“野性の王国”的なライブの興奮と醍醐味がそこにはある。しかも、その成果が大きければ大きいほど、快感は倍増する。

あるいは獲物を得られなかったとしても、「そこを掘り下げても何もない」「この部分はもう少し調べれば何とかなるかも」といった経験知を全員で共有することになる。これも、その場にいた者しか得られない大きな財産だ。

やや大げさにいえば、こういう時間を過ごすことこそ、働く喜びというものではないだろうか。組織の一員として、多くの仲間とともに働くビジネスパーソンの最大の特権であるとさえ思っている。


なぜ会議の空気は重いのか

ところが、概して会社の会議というと、重たい空気に包まれることが少なくない。発言するのは一部だけで、他の多くのメンバーは押し黙ったまま。最初から銛(もり)も弓も持とうとせず、自粛しているのである。

私が思うに、これはメンバーの資質の問題ではない。多くの場合、空気を重くしている誰か(主に上司)の問題だ。1人で一方的に話したり、部下の反論に露骨にイヤな顔をしたりする。「最近の若者は元気がない」と嘆く中高年層は多いが、そういう人こそ、実は若者の元気を奪っている張本人だったりするのである。これでは、会議が沈痛なままでも仕方がない。

私は『にほんごであそぼ』に限らず、さまざまな会社や学会などの会議に参加する機会がある。それまでおおいに盛り上がっていた会議が、途中で1人が加わったとたんに冷えたり、逆に冷え込んでいた会議が、1人が抜けることで“雪解け”のように活性化する例を何度となく見てきた。私自身はどういうメンバーが集まろうとさして気にしないが、同じ組織の人間関係や上下関係が複雑に絡むと、必要以上に自粛ないし萎縮してしまうものらしい。

もちろん、そんな時間がおもしろいはずがない。上司にとっても、参加メンバーが「のれんに腕押し」では会議を開く意味がない。あるいは会社としても、貴重な人材がこうして時間を浪費することに、何らメリットはない。つまり、誰にとっても一文の得にもならないわけだ。 「そんな会議なら止めてしまえばいい」とは誰もが思うことだが、会社にはそれぞれ文化や慣習やルールがあるため、そう簡単にはいかない。まして部下から上司に対して進言すれば、ますます角が立つおそれがある。


“野性の王国”を自分でつくれ

そこで提案したいのが、「ワーキンググループ」の活用だ。“本会議”で議論すべきテーマについて、参加メンバーのうちの何人かが集まり、事前に大筋を決めたり、事後に細部を詰めたりするのである。

要は、自ら議論しやすい環境を整え、前述したような“野性の王国”をつくろうというわけだ。これは非公式でもいいし、「全員が集まるのは時間と労力がもったいないから」といった恩きせがましい理由をつけて上司に認めさせてもよい。

だいたい会議というものは、本格的かつ大人数になるほど、承認機能のほうが重要になる。したがって丁々発止のクリエイティブな議論には向かない。それを小回りのきくワーキンググループで補完すると考えれば分かりやすいし、上司も説得しやすいはずだ。

ただ重要なのは、その人選だ。メンバー次第で、有効に機能することもあれば不発に終わることもある。「重石」になっているような人を単に除外するだけではなく、直感力に優れた人、かつそのまま飲みに行っても仕事の話で盛り上がれそうな人だけで集まることがポイントだ。仲良しグループではなく、あくまでも効率的にワーク(作業)するためのチームなのだから、これは当然だろう。

ここでアイデアがまとまれば、それを“本会議”に叩き台として提出すればよい。叩き台だから、多少荒削りでも大胆でもかまわない。少なくともノーアイデアで自粛しているより有効だし、ライブのアグレッシブな醍醐味も堪能できるはずだ。
  1. 2008/05/29(木) 07:30:10|
  2. 会社、仕事
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ある県警の話

お金と仕事の宇宙構造
九州のある県警に勤めている方がいます。 ・・・(略)・・・ ある現場から、鑑識課の5、6人が帰ってきたそうです。帰って来て、この人たちが話をしているのを、この娘さんが事務をとりながら聞きました。

この人たちは、次のように言ったそうです。
「犯罪の現場になる所は、どうしてこうも揃いも揃って、トイレと流しと洗面所が汚れているのだろう。今まで自分たちが行った犯罪の現場で、トイレと流しと洗面所がきれいだった所は、ほとんどない」

そうしたら、同じ鑑識課の10人くらいも集まってきて、「そういえば、あの事件のときもそうだった。この事件のときもそうだった。そういえば、あそこもそうだったなあ」と話に花が咲きました。

 ・・・(略)・・・

これはすごい話です。
すごい話なので、講演会で話したことがあります。そのときの講演テープが出回り、関東の方で聞いた方がいました。

この方も、関東のある県警に勤めているのですが、同じことを言っていました。
「実は、私の何十年かの経験で言うと、トイレ、流し、洗面台が汚れている所が犯罪の現場になりやすい。多分、日本中でそうだろう」

 ・・・(略)・・・

「この家を選んでこの家に入ろう」と思うところから犯罪が始まります。
でも、トイレと流しと洗面所は外から見えるでしょうか。
見えないのに、入っていった所は、必ずトイレと流しと洗面所が汚れているのです。

 ・・・(略)・・・

これは、どういうことなのでしょうか。
このような家は入りやすいのかもしれません。「入っていいよ」と家のオーラが言っているのだと思います。泥棒は外から見てわからないはずなのに、汚れているということで、シンパシー(共鳴・共振)して誘い込まれるのではないでしょうか。

「泥棒」という言葉は、「泥」という字を使います。なぜ「泥」という字を使うのでしょうか。なぜ「泥棒」というのか、とても不思議です。

トイレ、流し、洗面台が「汚れ」ているのと、「泥」というのが、すごく共鳴しているような気がします。

 ・・・(略)・・・

人ひとりにも、オーラがあるのではないでしょうか。もしかすると、そのオーラをつくるのは、「汚れたところの掃除」なのかもしれません。
  1. 2008/05/28(水) 07:30:54|
  2. 幸福になりたい
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社員全員と素早くどれだけでも情報を共有できる

【ウェブ立志篇】米ミューズ・アソシエイツ社長 梅田望夫


■「情報共有」の重要性

IT関係の今年上半期最大のニュースは、グーグルと対抗するために、マイクロソフトがヤフー買収を目論(もくろ)んだことであった。

2月1日に、マイクロソフトが総額446億ドルでの買収をヤフーに提案したところから大騒ぎが始まり、3カ月間にわたる激しい交渉の末、5月3日に両社は決裂。買収提案は撤回された。

この過程を観察していて印象深かったのは、両社のCEO(最高経営責任者)が、節目にあたる重要なタイミングで、買収交渉状況を説明する手紙を全社員にあてて書き、メールで配信し、その全文がネット上のニュースや新聞でも取り上げられていたことだった。

2人のCEOは、それぞれの手紙の中で「情報共有宣言」とも言うべき表現で、買収交渉経過を逐一、全社員に報告することを約束していた。マイクロソフトのバルマーCEOが買収撤退を知らせるメールを社員あてに出したのは、交渉決裂報道が流れたのとほぼ同時だった。

こうした一連の動きは、現代の企業経営において、社員との情報共有の重要性が増していることを象徴する出来事としてとらえるといいだろう。

オープンなインターネットの存在を当たり前のものとして育った若い世代には、誰かと協力して何かを成し遂げようとするときに、情報を可能なかぎり全員で共有しようという風通しのいい文化がある。モチベーションの高いメンバーがすべての情報を共有すると、ものすごいスピードで物事が進み、それが大きなパワーにつながるし、イノベーションも生まれやすくなるからだ。しかも情報共有のためのコストはほとんどかからない。

ウェブ時代の覇者グーグルは、そんな新しい文化を企業経営の根幹に持ち込み、組織における情報共有の常識を根底から覆してしまった会社だ。公開企業に成長し、社員数が1万5000人を超えた今も、ごく一部の機密情報や顧客情報を除き、すべての情報を全社員がリアルタイムで共有するという組織文化を維持している。「情報共有が当たり前、情報隠蔽(いんぺい)は例外」を基本原則としたうえで、情報漏洩(ろうえい)対策などのリスク管理は同時に徹底的に行うという思想だ。

同社の驚異的な成功がこんな斬新な組織運営によって支えられていることもあり、シリコンバレーで新しく創業されるベンチャーはもちろんのこと、アメリカの大企業も、グーグルの思想から強い影響を受けはじめている。

私たちが慣れ親しんできた「組織の仕事」とは、大組織になればなるほど、重要な情報はほんの一部の人によって占有され、組織全体で何が起きているかをほとんどの社員は知らないのが普通である。組織運営もそのほうが格段に楽だった。

しかし今は、経営者の意志次第で、社員全員と素早くどれだけでも情報を共有できる道具立てが揃(そろ)っている。情報共有への姿勢は、経営者の意識の新しさをそのまま映す鏡となった。ネットになじむ若い世代は、情報共有を希求する気持ちが強い。よって若い知性を惹(ひ)きつけたいと考える頭脳産業では、組織内情報共有のあり方は、企業の創造性を左右する死活問題となった。「技術的に困難」という言い訳もできなくなり、グーグルのような革新者も現れた。私たちはそんな時代を今、生きているのである。
  1. 2008/05/27(火) 07:30:19|
  2. 会社、仕事
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メディアの自走性

伊東 乾の「常識の源流探訪」



「数値目標」が判断を誤らせる


タレントで弁護士の橋下徹氏は財政再建を旗印に選挙戦を戦って大阪府知事に当選しました。2008年2月6日に行われた知事就任後最初の記者会見で橋本氏は「財政非常事態宣言」を出しています。今回はまず、この「非常事態宣言」という言葉に注目してみましょう。

辞書で調べると「非常事態宣言」とは、主として国家の運営が何らかの理由により破綻の危機に瀕し、これに対して「平時の法制を超えた措置を実施すること」を最高責任者が発令するものとされます。テレビの演出にも通じているはずの橋下氏やそのブレーンたちは、あくまで比喩、ないしキャンペーンとして、この「非常事態宣言」という言葉を使ったのでしょう。しかし、言葉の定義を厳密に考えるなら、これは大変に不用意なことです。なぜなら選挙という民主的な手続きで選ばれたはずの候補者が、知事に就任早々「平時の法制を超えた強権」の発動を宣言している、と誤解されても仕方がないからです。


当選直後の戒厳令?

通常「非常事態宣言」が発せられる対象としては外国からの武力攻撃や内乱、暴動、テロ、大規模災害などが挙げられますが、橋下氏は財政再建に関して平時を超えた強権を発動しかねないと、就任早々宣言している。

通常の「非常事態宣言」発令に際して行われる措置には、警察および軍隊を含む国家公務員の動員、公共財の徴発、検問や家宅捜索などの許可、特に内乱に際しては集会の自由やストライキなど市民の権利を制限する措置も含まれる。こうした市民の権利制限が強くなると、性格として戒厳令に近くなってしまいます。

この最初の記者会見で橋下氏はまた。2008年度予算は前年比で「1000億円削減する」と明言してしまいます。この「1000億」という数字の算出根拠はよく分かりませんでした。が、ともかく一度「1000億削るんだ」という「数値目標」が立ってしまうと、それに向けて物事が動き始めてしまいます

「子供が笑う」をキャッチフレーズに当選した橋下氏が、最初の記者会見で「財政に関しては戒厳令を発布します」と公言した。このことの意味や責任は、以下の経緯などを見るにつけても、きちんと考えておく必要があると私は思います。


拙劣な「合理化案」

果たして、上の記者会見から2カ月ほどが経過した4月11日、橋下氏のブレーン集団「大阪府改革プロジェクトチーム」は、事業費や人件費などの削減によって平成20年度に1100億円の収支「改善」を図る「財政再建プログラム試案(PT案)」を発表します。若い橋下知事の「聖域なきゼロベース」での見直し方針に従って、高齢者、障害者、乳幼児を対象とした医療費補助削減のほか、私学助成のカットなど、府民生活に直接の影響を与えるものに踏み込んだ「大胆」な改革案が、2カ月ほどの短期間でまとめられました。

別の言い方をするなら、知事が公言してしまった「1000億」という数値目標に無理やりでも合致するようなプランが、2カ月程度の突貫工事で作られたとも言えるでしょう。

知事が各種人権団体などを含む「聖域なき改革」を掲げたことを評価する人もいます。確かに、慢性化した不健全な財政の正常化への決意自身は、その意気やよし、とすべきでしょう。しかし「PT案」内で同時に示された「府公務員人件費一律1割削減」「文化施設や文化団体、イベントへの援助打ち切り」などの方針の中でも、人件費削減はたった数日の内に予算案に計上しないことになりましたし、そもそも選挙で公約していた「原則として府債は発行しない」という大方針も、当選翌月に直ちに放棄され、160億円ほどの建設事業費用府債の発行が決定されました。私学助成金の削減も撤回されます。こんな具合で声の大きな圧力団体が存在する分野に関しては、就任早々公約と正反対の「現状維持」が続きますが、そうした反発の少ない分野では「公約遵守」なのか、「財政戒厳令」の施行が継続されそうな勢いです。その最たるものが文化や福祉の政策にほかなりません。


行政の社会的責任

私のホームグラウンドであるクラシック音楽の分野でも、大阪センチュリー交響楽団への助成が大幅に削減されることになりました。今年度は前年度比1割弱の削減ですが、来年度は補助自体をまるまる廃止する方針、と聞いています。これは、まともな社会人が計画性を持って立てる「2年度計画」と呼べるものではありません。2カ月の急ごしらえで作った「PT案」の中でも、最も拙劣かつ乱暴極まりない「支出削減案」の1つと断言してかまわないでしょう。

当然ながら、大阪では「オーケストラを守ろう」という声が沸き上がり、署名運動なども起こっています。ただ、先月関西でオーケストラの仕事があり、そこで私も現地の声を聞いてみたところ「ほかにも痛み分けをしている分野があるので、私たちオーケストラだけを、とは強く言えない…」と困惑する現場のホンネも聞きました。

「財政が危機に瀕している」という「非常事態」で「戒厳令」が発布され、「聖域なき改革」の旗印で極端な支出削減案を、経験の少ない若いスタッフが短期間に作り上げる。そのこと自体を悪いとは必ずしも言えないかもしれません。慢性的な財政破綻に苦しむ地方自治体としては画期的な、カンフル注射的な効果は上がったでしょう。

さてしかし、いざ旗印を掲げたところで、声の大きな圧力には「聖域」のないはずの「改革」がさっさと腰砕けになり、小さな声しか本当に上げることができない文化や福祉が結果的に「聖域なしに」圧迫されて「数値目標」の達成が急がれるという状況は、正確に指摘しておく必要があります。

ここで見失われているものは何か? それは「行政の社会的責任」そのものにほかなりません。敢えて「CSR」(企業の社会的責任)になぞらえて言うなら「GSR」Government’s Social Responsibility の感覚が完全に欠如したまま、「支出の削減」という数字の目標だけが暴走し、一度破壊してしまったら、二度と取り戻せない「環境」に対する行政の責任を、全く顧慮していないから、こういうことが起きるのでしょう。


ナチスの非常事態宣言と福祉・文化の圧迫

これは大阪の例とは無関係ですが、「非常事態宣言」と「福祉、文化の圧迫」が直結する代表例として、私はどうしてもナチス・ドイツの社会政策を想起してしまいます。

アウシュヴィッツ強制収容所でのユダヤ人大虐殺などは多くの人がご存じですが、こうした「絶滅政策」の端緒が、心身障害者の福祉圧迫に端を発したという事実は、日本では十分に知られてはいません。

「精神病患者や精神薄弱者などを国家が補助して養うと」「1年当たり何万マルク(ライヒスマルク)の無駄になる」「だから病院収容所に集住させて」「最終的には絶滅政策の対象とする」

一般にはナチス・ドイツの「狂気」が強調されることが多いですが、現実のナチス政策は押しなべて極めて「合理的」で、明確な根拠があるものばかりです。ポイントは、そこで「人命」などより「財政」「効率化」などを優先するという価値判断にある。それを「狂気」と呼ぶことに私は大いに反対です。そんなことを言っているから幾度も同じミスを繰り返すのです。「価値観」の誤りをこそ、私たちは「他人ごとではない」と自戒して、意識し続けねばならないと思います。

社会が心身障害者と共生することで発生する財政支出が一定額あるでしょう。それをゼロにするという程度のソロバン勘定で「非効率な人間は殺処分」という決定を下してしまったナチス政権は、何か決定的なものを失ってしまいました。

取り返しのつかない、何かの「精神環境」が、決定的に破壊されてしまった。当初は障害者や精神病者に限られていた政策が、やがて「劣等人種」と勝手な烙印を押した「ユダヤ人」やナチスに抵抗する政治犯、ロシア人、ポーランド人、ルクセンブルク人全体などに拡大するのはアッという間でした。多くの「取り返しのつかない一歩」は、小さなきっかけから踏み越えてしまうことが多いようです。


「後期高齢者医療制度」にも同じ構造が…

先週「分子進化の中立説」から「一見目立たない突然変異」の急速な蓄積を社会現象に当てはめて考えましたが、あの話は前回の「裁判員制度」だけに限るものではなく、およそあらゆる社会現象に関して、慎重に検討してみる価値があるものだと私は考えます。

「やがて到来するであろう団塊世代の老人医療費爆発」を念頭に、「数値目標」が設定されて、試行的に導入されたらしい「後期高齢者」医療の問題も、上記と大変に似通った性格を持っています。私自身、身近に80代90代の方が幾人も居られるのですが、ほぼ全員の方が例外なく「年寄りは死ねという政策か?」と、既に憤りを超えて呆れて言葉が出ないようです。

一度壊したら取り返しがつかない、生命のようなデリケートな対象への顧慮を欠いた、乱暴で拙速な「数値目標」の実現。近代化(モダニズム)が歌われた20世紀を通じて、これによってどれだけの地球環境が破壊されたことか(乱開発)。あるいはどれだけの貴重な文化が失われ(「文化大革命」からタリバーンによる「バーミアン石仏爆破」まで)、どれだけ精神風土が荒廃したことか(米国社会が典型的ですが)。

内外の歴史に先例を見ても、拙速な「合理化」の改革が、取り返しのつかない「環境破壊」を引き起こした例は枚挙に暇がありません。


精神・文化の環境保全

さて、話を大阪に戻しましょう。

大阪府が一律に支出削減の対象とし、声が大きくなかったために存亡の危機に瀕しているのは、お笑いの「大阪府立上方演芸資料館(ワッハ上方)」、男女雇用均等に関する「大阪府立女性総合センター(ドーンセンター)」そして大阪センチュリー交響楽団などです。いずれも、一度壊してしまったら、もう一度それを作り直すのは大変な「精神・文化の環境保全」に重要な役割を果たしている施設と言ってよいでしょう。

生命と同様、文化や精神、つまり「こころ」の器は、破壊してしまうのはいとも簡単です。しかしそれを一から作り出すのは物凄いエネルギーを要します。実際、上記のすべて、かつて「著しいエネルギー」が投入されて、いま存在している設備です。それを、思慮の欠けた拙劣な「合理化案」が、再起不能に追い詰めるところまで破壊するとしたら、一体、それらの施設を作った本来の意図とは、何だったのでしょうか?

社会的存在が持っている価値、果たしている役割、あるいは文化、社会環境の保全という観点。

そこから全体のバランスを取りつつ、支出の削減などを考えるのが、行政が果たすべき社会的責任にほかなりません。現状の「PT案」は、「精神環境」の破壊に関しては戒厳令のまま、極端に乱暴な「数値目標」を振り回しています。

ところが、強いクレームがついたところは軒並み腰砕けになっている。結局「1000億の支出削減」は実現せず、かけがえのない文化価値だけが根こそぎになる、ココロだけ荒んで終わる代物になるように見えてしかたありません。



ココロを統御する大人のプロフェッショナル

既に報道されているようにこの「PT案」を公開した直後の4月17日、橋本知事は府内自治体の首長と意見交換を行うための会合を開きました。ここでは各首長から知事への不満が約1時間にわたって爆発しました。

例えば守口市の西口勇市長は言います。

「子どもが笑う、大人が笑う? どこが笑うんですか? こんなことやっちゃったら泣いて苦しみますよ」

摂津市の森山一正市長は「この際、無責任なたたき台は白紙に戻しなさい!」と、未経験な若者を諭す年長者の口調で叱ったそうです。

こんな状況下、橋下知事はあろうことか泣き始め、声をしゃくり上げながら「いま一度ご協力のほど、宜しくお願いします」と答えたという。それが「メディア」を通じて広く報道されてしまいました。

この「涙」が報道されると、マスコミというフランケンシュタインが自走し始め、おかしな世論が動き始めます。何が起こったのか? 橋下知事への「ガンバレ!」という支持が7割を超えるという現象が起きてしまうのです。

このコラムで私は「ヒトの意思決定は情動がつかさどる」という生理的事実を幾度も紹介してきました。ですが今回の例ほど、そのポピュリズム展開が顕著に見えたことはありませんでした。

30年近く前「ザ・ベストテン」というテレビのお化け視聴率番組で、松田聖子が1位にランクインし、泣きながらヒットソング「青い珊瑚礁」を歌って、人気を不動にしたのが思い出されます。

知事の「涙」が登場すると、府下の首長たちが「悪者」になってしまう。正確には「悪者」に見えてしまう。「泣けば正義」とまでは言えなくても、涙によって、それを見る人の判断が大きく「採点の甘いもの」になってしまうことは、「裁判員裁判」の話題でも触れた通りです。まさに「お涙頂戴」の「浪花節」になってしまう。

さらに、泣いている最中にヒトはまともに思考することができない、つまり効率的に脳を駆動することができないという生理的な事実も、幾度も触れましたが、再度強調しておきましょう。

首長たちに吊るし上げを食らって泣いている時(それが効果を狙ったウソ泣きでない限り)、橋下知事は地方公共団体の長として冷静な判断を下せる、脳の生理状態にはなかったはずです。府知事の重責からは、二度と繰り返してはならない失態と指摘しておく必要があります。

府下の首長たちとの会合という、最も高度に判断を下すべき場において、思考不能の状況(嗚咽)に陥るというのは、要するにこころのコントロールができていない、情動的に未熟の一語に尽きるものです。

曲がりなりにも人口880万府民の生活を守る責任を持つ立場にあるのであれば、こうした場で冷静に物事を判断する強い心と判断力、感情をコントロールする人間としての「器量」が必要不可欠です。その胆力を全く持っていない本質を露呈したうえに、さらにその不始末そのものがメディアの自走性によって「支持」に転化し、正体不明の「追い風」が吹き始める。

誰も企図していないのに、ファシズムというフランケンシュタインが動き出して、いつのまにか止められなくなってしまうのと全く同じ「メディアマインドコントロール」の自走性を、この「泣いた橋下知事への支持現象」に指摘しなければなりません。

これはとんでもないことです。要するに、どんなヒドイ政策を振り回していても、理屈をすっ飛ばし、涙で大衆の情動を揺り動かし、理非と無関係に支持が増大してしまう。橋下氏も10年以上弁護士を本業にしていたのでしょうから法廷でのやり取りや、そこで裁判官の情状を取りつける手練手管はよく知っているはずです。もしその応用で、故意に「お涙頂戴」を演じたのであれば、責任ある首長として資質を疑わざるを得ないことになります。

過失で泣いたのならお粗末の一語。故意であれば府民を欺くパフォーマンス、つまり芝居で同情を集めて、物事の本質を見えなくするのだから、これまた知事という責任ある立場でなすべきことでは絶対にない。どちらにせよ、ろくなものではないことを、ほかならぬメディアを通じて明確に断言しておかねばなりません。

この連載で私がマスメディアと「情報の環境問題」をCSR(企業の社会的責任)の主要なテーマに設定しているのは、こういう「メディアを通じた情報汚染」を未然に防止してゆく、高い目線の水準を持って、良心の灯を社会に絶やさないことが重要だと思うからにほかなりません。


精神環境は一度壊すと回復至難

橋下知事のスタッフたちによる「PT案」が、よく考えずに数値目標で「切り捨てる」と決めた「ワッハ上方」「ドーンセンター」などの施設は、いま書いた「精神の器」人間性とその「器量」を支える、価値ある施設として官費が投入されて設立されたはずです。市民生活に根ざした大切な「文化資源」として、公金を投じて作られたものでしょう。

私の専門で言うなら、オーケストラというのは「ココロのコントロール」「感情の制御」を子どもたちに教える、およそ人知の生み出した、最も優れた学校、教場にほかなりません。

私たちも演奏のさなかに、稀にですが、感極まって涙が流れそうになることがあります。でも、泣いていてはきちんとした演奏はできません。それを自制しながら、確かな感動をお客さんに伝え、今日という日を生き、演奏会という場を共にさせていただいた、生きていて良かった、音楽を共にできてよかったというその価値と意味をしっかりとつかむ。そういう仕事をナリワイにしているのです。

職業芸術家、芸術音楽家の仕事は、ここに大きなポイントがあります。かつて「題名のない音楽会」というオーケストラのテレビ番組で音楽上の責任を持っていた時、私の主要な仕事は、暴力を使わないケンカだったような気がします。というのも、企画会議のたぐいに私は音楽家の(利益)代表として出席していたわけですが、テレビ的なウケを狙いたい制作プロダクションや広告代理店と、鋭く対立せざるを得なかったのです。

職業芸術家として真面目に生活しているオーケストラ演奏家が大切に守っているものがある。右派文化人としても社会的に知られた黛敏郎氏が存命中は、若干視聴率が低くても、音楽の良心にそむくような番組作りはさせなかった。ところがその一線が無くなってしまうと、そこにバラエティ番組の制作プロダクションなどが土足で入ってくるようになる。プロデューサー一人ではなかなか抑えられない。私は黛さんと違ってタカ派ではありませんが、音楽のうえでは通じるものを認めてもらっていた縁があって、その急逝後、番組に責任を持つことにもなりましたので、守ってきたものを台無しにされないよう、徹底して戦うことにしました。まだ30代前半でしたから、若かったのも一因でしょう。

オーケストラのような「精神陶冶の機能」を持つ教育的な組織は、人類社会を広く見渡しても、あまりたくさんは存在していません。本当に貴重なものなのです。

ただ一方では、私たち音楽家サイドも、このようなオーケストラの持つ固有の価値を、もっと分かりやすい形で、社会に還元してゆく必要があるでしょう。

例えば企業経営を考えるうえで、オーケストラという仕組みには、参考にすべき様々な英智が詰まっており、いずれこうした話題にも、このコラムで触れられればと思っています。

音楽サイドも、単に「大事な文化だから助成を!」というだけでは、乱暴で無思慮な合理化に対抗することはできません。逆に「これが失われると、どう困るのか」、社会全体に受け入れられる、価値の喪失として訴えねばならないでしょう。

「オーケストラがなくなると、プレーヤーの生活が困る」のは、当事者にはもちろん切実な問題です。しかし同時に「オーケストラ文化」を生きる私たち音楽家が活動し続けることで、社会にどれだけかけがえのない価値を還元できるのか、それをより明確化する努力も必要な時代なのだと思います。

「文化」はココロの器です。これに触れ、人は感動を通じて感情的に成長し、より力強い人間性を獲得して、難局に対処できる器量も養うことができる。そういうコントロールができるようになれば、少なくとも大切な職業上の会合で、自分の感情を抑えることができず、嗚咽するようなことは減るはずです。

「精神環境」は目に見えません。それを支える文化的な価値は、おなかが減った時には必ずしも腹いっぱいにはしてくれません。しかしココロの置き所が無くなった人に、人間の暖かい感情を取り戻させてくれる、本当にかけがえのない価値を持っている。一方で、「キレる」子どもの心の荒廃や教育を問題にしつつ、同時に「財務」という、顔のないのっぺらぼうの数字によって、せっかく作ったはずの「心の社会資本」をつぎつぎに壊してしまうような、全体像とバランスを欠く政策観はまったく感心しません。

「笑い」という感情が人間にとって持つ意味など、既にこのコラムで幾度も触れてきた通りです。「男女の雇用均等」というのは、ただ言葉で書き、あるいは制度を整えればそれでよい、というものではない。そこで仏を作って魂を入れる施設が作られたはずです。そういう内実に配慮した、現実的な予算削減案であれば、当事者も世論も、違う反応を示しただろうと思います。1か0か、100点か0点かという「改革」の性急さ、それ自身が拙劣なのです。 先に立てた数値目標で内実と無関係に、旋策のあちこちを素人が台無しにして、気がついた時には再起不能なほど行政環境が破壊されていた、では済まないのです。

府財政の健全化は、サラ金の多重債務の整理案ではない。弁護士的な感覚だけで債務整理に当たるとすれば、そこでまるまる欠如するのが「行政の社会的責任」の自覚、ということになるでしょう。


知事は自分の子どもを連れて、まず謙虚に客席へ

たたき台として評判の悪い「PT案」は、6月をめどに予算化されるようです。ここで、私は思うのですが、橋下知事さんには闇雲な「数値目標」の達成や、無思慮な「聖域なし」などではなく、一つひとつ対象を見極め、それらが持つ共同体的な価値を判断したうえで、言うなれば「野党的」な弁護士感覚ではなく、行政府の長としてのバランス感覚と責任感を持って、きめ細かな決定を下す「行政の社会的責任」を徹底してもらいたいと思います。

とりわけ、大阪センチュリー交響楽団に関しては、乱暴な「補助金全廃」のアタマゴナシの前に、どうですか橋下さん、一度客席に足を運んで、演奏を聴いて、何か感じたり考えたりしてから、どういう決定を下すか、改めて決めてみてはどうでしょう?

オーケストラ、そこには学生時代から「ここ一番」という清水の舞台のような試練、入試などの試験演奏から入団オーディション、演奏会の修羅場など、無数の苦境を切り抜けてきた百戦練磨の「感情統御の達人」が100人から、身体を張って演奏をしています。音楽家は涙を見せて客の歓心を買ったりはしません。音楽という実質で、人の心に訴える、そういう職業を生きている。そういう現実を、いちどよくアタマを冷やして認識して頂きたいと思います。コップの水をこぼすのは一瞬、いちどこぼれた「覆水」は、容易には盆に返りません。

現状の「PT案」は、文化資源への無思慮という観点では、アフガニスタンのタリバーンがバーミアン石仏を爆破したのと同じレベルと言って構わない、乱暴なものです。若く見える橋下知事は、実は7人の子どもがいるという。ここはひとつ、静かに胸に手を当てて、いま無責任な無思慮によって存亡の危機に置かれている楽団と、生活の根幹を破壊されつつある音楽家たちの演奏を、知事自ら両目両耳でしっかり見て、聴いて、「子どもの笑う」大阪を文化資源保護、精神環境保全という観点から、根本的に考え直してみるべきではないでしょうか?

その際はぜひ、7人の子どもたちも伴って、また「ワッハ上方」「ドーンセンター」などを回ってから、夕方のオーケストラのコンサートを聴いていただくのがよいでしょう。私自身はセンチュリー交響楽団と一切の利害はありませんが、もし知事一家が聴きに来る、ということになったら、すべての関係者が、(いつも通り、でもあると思いますが)楽団の存亡を賭けて、一期一会の演奏をすると思います。

そこには人間の深い真実が、かならず立ち現れてくるはずです。まだ感じ方も考え方も柔らかいお子さんたちにも、何か大切なものを持って返って貰えれば、と思います。

これは単に橋下さん一人ではなく、類似の行政判断を問われている、責任ある立場の方すべてに、一音楽家として、また感情のコントロールとメディアの問題を調べている一大学人として、常に強くお勧めしたい事に他なりません。

(つづく)
  1. 2008/05/26(月) 02:11:08|
  2. 会社、仕事
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「喜ばれるとうれしいのよね」スイッチ

宇宙を味方にする方程式宇宙を味方にする方程式

小林 正観



動物には二つの本能が組み込まれています。
一つは自己保存の本能。
二つめは種の保存本能。
この二つだけです。人間以外の動物は、自己保存と種の保存だけがある。

シマウマが群れているのはなぜか?互いにいろいろなことをやり合って社会性を持って支え合っているのではありません。群れていることによって安全性が高まるという自分の利益のために集合しているだけです。要するに、一頭一頭はすべて自分の自己保存と種の保存を図るためだけに動いている。

実は、動物と神の間に人間という存在が存在しているのです。人間というのは動物でいうと、たとえばタヌキ、キツネ、ネコ、コアラ、ラッコ・・こういうふうに片仮名で書いたときに”ヒト”と書きます。
二十年ぐらい前になるかと思いますが、文部省が動物・植物の名前は全部片仮名で書くことという通達を出しました。それで、人というのも学問的に呼ぶ場合は、片仮名で「ヒト」と書かなくてはいけません。

・ ・ ・ ・

そして、人は一人で生きていると「ヒト」、人の間で生きている人だけ「人間」になります。

この「人間」は動物にある一と二の本能プラス、神様から三つ目の本能をいただいています。ありとあらゆる生物の中でこの三つの本能を持っている唯一の存在です。

この三つ目の本能とは。「喜ばれるとうれしい」という本能です。

・ ・ ・ ・

そして、皆さんはこの一言を聞いてしまった結果として、今日の今この瞬間からどんなに抵抗しても抵抗ができない。なぜならば、全員の心の中に「喜ばれるとうれしい」という本能が入り込んでいるからです。入っていない人は一人もいない。どんな人も喜ばれるとうれしい。

暴走族のお兄ちゃんたちは、ワンワンワンワンワンとものすごい音を立てますけれど、あれは仲間のみんなが「すげえ、いい音だ」と喜んでくれるからうれしくてやっている。いくらワンワンワンワン音を立てても暴走族仲間がシーンとしているとつまらない。喜んでくれないと、ものすごくつまらなくなってしまうわけです。

喜ばれるということの意味は、いろいろなジャンルで人によって変わってくるものですけれど、とりあえず「喜ばれるとうれしい」という本能は誰の中にも組み込まれている。それが一般社会に適合するかどうかは別として、とりあえず「喜ばれるとうれしい」という本能が入っているのです。

これを知ってしまった皆さんは「喜ばれるとうれしいのよね」というスイッチがもうカチッと入ってしまいました。今日の今この瞬間から動き出してしまいました。


・ ・ ・ ・


人間には生まれたときから「自己保存」と「種の保存」と「喜ばれるとうれしい」という本能が三三%ぐらいずつ入っているのです。それが大体五十代になると二十五対二十五対五十ぐらいになっていく。一番目と二番目の本能は、十年で10%ずつぐらい減っていくのですが、三番目の本能だけは大きくなっていくようにつくられています。

というわけですから、八十歳、九十歳になると「喜ばれるとうれしい」という本能だけが残っている状態になります。中には七十代になっても種の保存にしか興味のない人もいますが、それは極めて稀(まれ)な人。例外です。

  1. 2008/05/06(火) 11:21:11|
  2. 幸福になりたい
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『論語』が深めた日本の国柄

Japan On the Globe 国際派日本人養成講座



■1.孔子の喜びに弾んだ肉声■

「孔子は、その思想が当時の為政者に入れられず、不遇の人生を歩んだ人だ」と思っていたのだが、実は「その内面では学ぶことの喜びに充ち満ちた幸福な人生を送った人ではなかったか」と『子供と声を出して読みたい「論語」百章』[1]を読みつつ今更ながらに気がついた。

著者の岩越豊雄さんはこう語っている。

私は小学校の校長を退職した後、子供を対象に、江戸時代の「寺子屋」をモデルに、素読と習字を組み合わせた塾を始めました。対象は小学生たちですが、喜んで『論語』を素読しています。リズムの美しい簡潔な文で、読んで心地よい名文だからだと思います。[1,p31]

この本は、岩越さんが子供たちに『論語』の一章ずつを読み聞かせた内容をまとめたものだが、その文章を通じて、孔子の喜びに弾んだ肉声が聞こえてくるような気がした。『論語』の解説書は何冊か読んだことがあるが、こういう経験は初めてである。

こういう本を通じて、子供の時から学問の喜びを感じる事ができれば、それはこれからの長い一生を支える「学ぶ力」「生きる力」となるだろう。

■2.「学びの喜び」■

孔子の喜びは『論語』冒頭の第一章から弾んでいる。 [1,p37]

子(し)曰(いわ)く、学びて時にこれを習う。また説(よろこ)ばしからずや。朋(とも)あり、遠方より来たる。また楽しからずや。人知らずして慍(いか)らず、また君子ならずや。

先生がおっしゃった。学んだ時に、よくおさらいをする。それが自分の身についたものになってくる。なんと喜ばしいことではないか。心知る友が遠くから訪ねてきてくれる。なんと楽しいことではないか。人が認めてくれなくとも怒らない。なんと志の高い優れた人ではなかろうか。

この一章を、岩越さんは、子供たちにこう解説する。

「学ぶ」は「まねをする」に由来するといいます。「習」は雛鳥(ひな)が巣の上で親鳥の羽ばたきをまねて、飛び立つための練習をしている字形だといいます。

どのようなことでも、練習して初めてできるようになった時の喜びは誰でもよく覚えています。例えば自転車に乗れるようになった時とか、体が水に浮いて泳げるようになった時の喜びなどは、生涯忘れられない思い出です。学んだ時にはそれを何度も繰り返し、練習してできるようになる。それが「学びの喜び」です。小さな事でも、「わかった」、「できた」、「やり遂げた」という喜びを体験し、積み重ねると、自信にもなり、物事に意欲的に取り組めるようにもなるのです。

自転車や水泳を例に「学びの喜び」を説くあたりが、いかにも小学生にふさわしい。

■3.「学び」と「友」と「不足を思わない」■

その後に続く「朋(とも)あり、遠方より来たる」と「人知らずして慍(いか)らず」については:

学んだことが身につき、自信がつけば自然と互いに心が通じる友ができ、楽しく語り合うこともできます。そうした友が、思いがけなく訪ねてくれた時は、本当に嬉しいものです。

水泳の例で言えば、一緒に水泳を習う友達どうしが、自分は背泳もできるようになったよ、などと語り合う喜びだろう。

しかし、たとえ自分が学び、力をつけても、他の人がわかってくれない、認めてくれない時もあります。それでも怒ったり、不足を言ったりしない。そうできる人は、ほんとうに志の高い優(すぐ)れた人です。

へたくそな泳ぎで、級友も先生もなかなか褒めてくれないが、別に不満を言ったりしない。自分自身の上達そのものが喜びだからだ。

「学び」と「友」と「不足を思わない」、この3つの事柄は、学問の喜びということで一貫しているのです。

岩越さんのこの指摘から、私は初めて、孔子の抱いていた「学問の喜び」に触れえたような気がした。

■4.「あれが目の不自由な楽師を助ける作法なのだ」■

さて孔子の志した学問とは、どのようなものだったのか。それを孔子の行動を通じて説いた小学生にも分かりやすい一章がある。[1,p204]

師冕(しべん)見(まみ)ゆ。階(かい)に及ぶ。子(し)曰(いわ)く、階なりと。席に及ぶ。子曰く、席なりと。みな坐す。子之(こ)れに告げて曰く、某(それがし)はそこにあり、某(それがし)はそこにありと。師冕出(い)ず。子張(しちょう)問いて曰く、師と言うの道かと。子曰く、然(しか)り。固(もと)より師を相(たす)くるの道なりと。

目の不自由な楽師冕(べん)が訪ねてきた。先生は自ら出迎えて案内し、階段に来ると「階段ですよ」と言われ、席に来ると「席ですよ」と言われた。一同が座ると、「誰それはそこに。誰それはここに」と一人ひとり丁寧に教えられた。師冕が帰った後で子張が「あれが楽師に対する作法ですか」と訪ねた。先生が答えられた。「そうだ。あれが目の不自由な楽師を助ける作法なのだ」



目の不自由な者の身になって、きめ細かに対応する孔子の温かな配慮が伝わってきます。相手の身になって行動する、まさに仁者の在り方を具体的に学べる章です。

子張が質問したのは、一盲目の楽師に対して、孔子の取った対応があまりにも丁寧で、礼に過ぎるのではと思ったからです。「然(しか)り。固(もと)より師を相(たす)くるの道なりと」ときっぱりと答える孔子の言葉に、まごころからの思いやり、「忠恕」を「一以て之を貫いた」孔子の確信ある生き方を髣髴(ほうふつ)とさせます。

目の不自由な人を導いてあげることは小学生でもできることである。そういう誰にでもできる「まごころからの思いやり」が、孔子の学問の核心であった。

■5.「人を尊び、まごころから思いやる」■

「忠恕」を「一以て之を貫いた」とは、次の一章に出てくる言葉である。

子曰く、参(しん)や、吾(わ)が道、一(いつ)以(もっ)てこれを貫(つらぬ)く。曾子曰く、唯(い)と。子出(い)ず。門人、問うて曰く、なんの謂(い)いぞや。曾子曰く、夫子(ふうし)の道は忠恕(ちゅうじょ)のみ。

先生が曾子に呼びかけておっしゃった。「参(曾子)よ、私の生き方は一つのもので貫かれているのだが」と。曾子はただ「はい」と答えた。先生は部屋を出て行かれた。門人たちが「何を言いたかったのですか」と尋ねた。曾子が言った。「先生が貫かれている生き方は、人を尊ぶまごころからの思いやり、それに尽きる」と。



「忠恕」の字の作りは、「中と心」と「如と心」です。「中心」とはまごころのこと、「如心」とは、自分の心の如く人の心をおしはかるという意味です。つまり「人を尊び、まごころから思いやる」ことです。『論語』でしばしば触れられる「仁」にも通じます。それは孔子の一貫した生き方でした。

ちなみに「仁」については、こう解説されている。

「仁」とは「人」と「二」を組み合わせた漢字です。つまり、人と人との人間関係における倫理・道徳の基本である、「まごころから人を思いやる」ことです。[1,p40]

孔子の学問は、誰でもが持つ「まごころ」「おもいやり」をいかに引き出し、発展させるか、という所にあった。

■6.「素直な社員は良く伸び、仕事もできる」■

「まごころ」と「おもいやり」を伸ばすために、孔子は次のように若者に教え諭している。

子(し)曰(いわ)く、弟子(ていし)、入りては則(すなわ)ち孝、出でては則ち悌(てい)、謹みて信あり、汎(ひろ)く衆を愛して仁に親しみ、行いて余力有らば、則ち以(も)って文(ぶん)を学ばん。

先生がおっしゃった。若者よ、家では、親孝行、外では目上の人に素直に従う。何事にも度を過ごさないように控えめにし、約束を守る。多くの人を好きになり、善き人について学ぶ。そうした上で、まだゆとりがあるなら、本を読んで学んでいけばいい。



「親に孝行することや、人に素直であること」と「勉強すること」と、どっちが大切かと問えば、今は親も子も大抵は「勉強すること」と答えます。でも、孔子は逆だと言っています。

一流大学を優秀な成績で卒業しながら、違法な株取引で逮捕されたり、エセ宗教にひっかかって人を殺めたりする人間は、勉強ばかりしていて、「まごころ」や「おもいやり」を磨かなかった人間失格者であろう。

本当に優秀な人は大抵、素直です。経営の神様といわれた松下幸之助も「素直な社員は良く伸び、仕事もできる」と言っています。[1,p46]

親孝行、素直さ、謙虚さ、謹み、信頼、こうした人格的基礎を土壌として、その上に知識や技術が花開くのである。

■7.『論語』が深めた我が国の国柄■

『論語』は16百年ほど前に、海外から我が国にもたらされた最初の書物であった。そしてその「忠恕」や「仁」を核とする思想は、民を「大御宝(おおみたから)」と呼び、すべての生きとし生けるものが「一つ屋根の下の大家族」のように仲良く暮らしていくことを理想とした我が国の国柄[b]には、まことに相性の良いものであった。

そして我が先人たちは『論語』に学びつつ、我が国の国柄を深めていった。岩越さんは、その歴史を簡潔に振り返っている。

聖徳太子は、『論語』の「和」を深めて、「十七条憲法」の第一条に「和を以て貴しと為す」と説いた。鎌倉時代の「曹洞宗」の開祖・道元禅師は、世を治めるのは『論語』がよいと推奨していたという。

江戸時代には『論語』研究が盛んになり、中江藤樹[c]、山鹿素行、伊藤仁斎、荻生徂徠などが独自の思想を発展させた。こうした学問の系譜から、吉田松陰、西郷隆盛など幕末の志士が生まれ、明治維新への道を開いていく。

■8.「素読」の合理性■

こうした歴史を俯瞰した上で、岩越さんは語る。

偉人や学者だけではありません。江戸時代は一般の武士も庶民も『論語』を学びました。各藩の藩校はもちろん、庶民の子弟の教育が行われた寺子屋では、『論語』等の素読が行われていました。

「素読」とは、文章を意味はさておき、声を立てて暗唱できるまで、繰り返し読むことです。「読書百遍、意自ずから通ず」という言葉があります。声を出して何度も読んでいくうちに、自然にその意味が表れてくる、分かってくる、そうした読み方を言います。[1,p28]

「意味もわからない文章を丸暗記させるなど、なんと封建的な」と考える人も多いだろう。それに対して、岩越さんは小林秀雄の次の言葉を引用する。

(素読を)暗記強制教育だったと、簡単に考えるのは、悪い合理主義ですね。『論語』を簡単に暗記していまう。暗記するだけで意味がわからなければ、無意味なことだと言うが、それでは『論語』の意味とは何でしょう。それは人により年齢により、さまざまな意味にとれるものでしょう。一生かかったってわからない意味さえ含んでいるかも知れない。それなら意味を考えることは、実に曖昧な教育だとわかるでしょう。丸暗記させる教育だけが、はっきりとした教育です。[1,p30]

■9.『論語』の言葉を胸に、人生を歩んでいく■

「朋(とも)あり、遠方より来たる。また楽しからずや」というような言葉も、少年時代、壮年時代、そして熟年時代と、人生経験を積むにしたがって、自ずからその味わいも深まっていくだろう。素読とは、そのような言葉の種を幼児期から心に埋め込んであげることである。

小学生にたわいのない英会話を教えるよりは、はるかに高級な人間教育ではないか。そこから、しっかりとした精神的バックボーンを持った日本人が育っていくだろう。

すでに大人になってしまった人でも、『論語』の中の心に響く一節を暗記して、それを時々反芻しながら、自らの人生を歩んでいく、という生き方も良いのではないか。

ちなみに天皇陛下は「忠恕」という言葉がお好きだそうだ。ひたすらに国民の安寧を祈られる陛下ならではの言葉である。

『論語』の言葉を胸に抱いて人生を歩んでいくのが、我が先人たちの生き方であった。





■参考■
1. 岩越豊雄『子供と声を出して読みたい「論語」百章―人の品格
を磨くために』★★★、致知出版社、H19

子供と声を出して読みたい「論語」百章―人の品格を磨くために子供と声を出して読みたい「論語」百章―人の品格を磨くために
岩越 豊雄



  1. 2008/05/05(月) 20:56:00|
  2. 世界と日本
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「眼力」とは、”人を見る目”などという生やさしいものぢゃないんだ。

眼力眼力
齋藤 孝


たとえば野球でもサッカーでも、まったく注目されていない無名選手を大化けさせる監督やコーチたちがいる。
一方で、採用試験で冴えまくっていた期待の新人がまったく使えないと嘆く人事担当者がいる。
あるいは、ある上司のもとでは無能の評価を受けていたのに、異動で上司が替わったら同じ人とは思えないような活躍をする部下がいる。
こういったことがおきるのは、ひとえに「眼力」のなせる技である。「眼力」は、「その人物の本当の力や可能性を見抜ききる総合的な判断力」である。一般に言われる「人を見る目」などという生やさしいものとは違う。

  1. 2008/05/01(木) 08:06:28|
  2. 幸福になりたい
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