直接民主主義の前に議論すべきこと昨今、日本では、直接民主主義が注目されるようになってきた。住民投票が行われ、首相公選制なども議論されるようになった。直接民主主義の時代になると、国家の根本を立てるという話はどのようになるのだろうか。
各論で考えると、まず参議院とは何かという問題が出てくる。参議院選挙で勝った、負けたということには本当に意味があるのか。
安倍前首相は「負けた」といわれているが、民意を問うて、民意に捨てられたのか。きちんと計算すれば、そんなことはないことが分かる。
先の参議院選挙で、与党の総得票数は1650万票だった。これは小泉元首相のときの数字と変わらない。20万か30万票ほど減っただけである。
それなのに議員数が減ったのはなぜか。それは小選挙区制などの選挙制度のせいである。だから国民の与党への支持は小泉元首相時代と何も変わっていないではないか。民主党の票はたしかに増えたが、それは浮動票的な増え方である。そういうことを誰も言わないのはおかしい。
大選挙区制にすれば参議院に意味があるでは、小選挙区制は参議院の本質に合っているのだろうか。わたしが子どものころ、参議院の国会議員は、良識のある人がなると教えられた。大所高所から国家の根本を考えてもらうために、国会を二院制にしてあるといわれたものだ。
かつて参議院には緑風会という院内会派があって、無所属議員はそうした会派に所属した。もともと参議院は無所属の議員が多く、政党所属の人は少なかった。政党主導の政治活動はよくないといわれていた。
参議院の政党化が進めば衆議院と同じになってしまうから、参議院議員は一人ひとりが意見を持った人であるべきだとされていた。それがいつの間にか与野党対決になってしまった。だから、まずそこから直せという議論をすべきだと思う。
直すためにはどうすればいいのか。
選挙区を全国区のみにしてしまえばいい。自民党の政策勉強会に呼ばれたら、そういうことを言ってきた。参議院と衆議院と同じ選挙制度にするのはよくない。片方を小選挙区制にするなら、もう一方は大選挙区制にすべきだ。
極端に言えば、日本全国どこからでも、10万票を取ったら当選にすればいい。地方で票を取ってもいいし、東京で取ってもいい。特定職業の人ばかりから取ってもいい。とにかく10万票を取った人を国会議員にする。
そうしたら特色が出ると言ったら、趣旨には賛成してもらえた。しかし、「わたしたちは全国から10万票を取る選挙をしたことがない」と言っていた。当時は中選挙区制だったので、8万票か9万票でみんな当選していた。
選挙制度を変えれば、きっと今とは違う人が当選するだろう。それにより、参議院と衆議院それぞれの特色が出てくる。参議院の本質を考えると、そうした議論が出てきてもいいのではないか。
「民意」の「民」とは誰かそれから、選挙の投票は電子投票にすべきである。そうすれば自分の家からでも投票できるようになる。ただし、そのためには国民背番号制の導入が必要だ。「それは困る」という人が多いが、何が困るのだろう。困るのはやましいことがある人だろう。そういう議論になるべきだ。
さらに、選挙権の範囲だが、現在は20歳から死ぬまでと決めてある。それだけでいいのだろうか。「民意」というときの「民」とは何か。まずその定義が必要ではないか。
かつて米国では、18歳から兵役があって、ときには国のために死ななければならないのに、選挙権がないのはおかしいという議論があった。それにより選挙権を得る年齢がだいぶ下げられた。
日本は赤ん坊でも税金をとる。まだ生まれていないお腹の中の子どもでも税金をとられる。税金を払うなら選挙権があるはずだ。お腹の中の赤ん坊は母親が投票するとか、父親がするとか。
近ごろの子どもはみんなマセている。18歳と20歳に差があるだろうか。18歳くらいから、税金なども決められたものは納めている。それなのになぜ選挙権を与えないのか。
憲法改正を考えるなら、そのあたりが先だろう。安倍前首相は「民意に捨てられた」というが、そもそも民意とは何ぞやという議論がどこにもないのはおかしい。
議論していない根本的問題はいくつもある国民とは何か。それは発言する資格のある人である。もともと、納税すれば発言権があった。米国が独立した理由がそれだった。米国は英国に対して税金を納めているのに、英国議会に代表を出せない。そんなばかなことがあるかということで、「代表なくして課税なし」が独立戦争のスローガンとなった。
それなら逆に、納税していない人は選挙権を没収すべきである。税金を納めないで社会福祉をもらっている人には、投票する権利はない。そういう憲法改正も考えられるのではないか。
このように、これまで議論していない根本問題がいくつもある。直接民主主義の方へ傾くなら、もっとみんなが道州制に賛成すべきである。あるいは道州制ではなくても、村にもっと権力を持たせてもいい。
昔は自治体警察があった。県庁の県警だけではなく、市警など、自治体ごとに警察があった。米国のシステムと同じである。
それがよかったのかというと、日本国民は「おかしい」と言い出した。狭い地域の警察はその地域のボスに負ける。そのときは米国式に、県民または市民が警察の味方をして、ボスをやっつければいい。
そんなことはしたくないから、「国家警察」をきちんと立ててくれと国民は言った。国家警察では、頭のいい人を採用して、それを県警本部長に天下りさせてくれと市民が言って、天下りをいただいてみんな喜んでいた。結果としてそれでうまくいっていたから、深くは考えなかった。
警察とケンカしたがらないマスコミところが今はもう結果が悪くなってきた。警察がどうもおかしくなってきた。それではどうすればいいのか。県民、市民は、今の警察庁に対して思っていることや言うべきことがあるはずだ。国家公安委員会に対してもっと働けと言いたいはずだ。
わたしが代弁してもいいのだが、
マスコミは警察批判を絶対に載せてくれない。マスコミは警察とケンカしたがらない。今のマスコミの人たちは、自分が取材して歩くのは面倒くさいから、警察の玄関で待っている。そこでもらった情報を掲載しているだけ。昔の新聞記者は自分で歩いたものだ。今の新聞記者は家にいてテレビを見て、それをもとに記事を書いて会社へ送る。在宅勤務の時代である。
だからオリジナルの記事を書かないし、そもそもそれでは書けない。誰も切り込めない。インターネットを見ていると、自分の体験したことを書いている人のホームページやブログの周りに人々がたかっている。それをマスコミは「強敵だ」と言っている。
ではマスコミはこの先どうするのだろう。自分たちも昔のように足で歩くと言わないのか。インターネットの脅威に勝つにはどうするかという話し合いをやっているのだろうか。
そういうマスコミの大没落が始まるだろう。政党も没落する。自民党も民主党も両方とも信用を失墜する。その代わりお役所は強くなると思う。そうしたいろいろな変動がこの後に予想される。
(出典:
東京財団前会長 日下 公人)
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- 2008/01/08(火) 06:30:46|
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