【正論】「IT」と人間革命 東京大学教授・西垣通■近代人と異なる「ネット人格」
IT革命という言葉が広まってから約8年たった。社会はどう変わっただろうか。肝心なのはそれが、技術や経済だけでなく「人間の革命」でもあるという点なのである。
振り返れば、進展はそれなりにあった。ブロードバンド回線はかなり普及したし、放送と通信の融合やユビキタスネット技術についても、専門家のあいだで地道な努力が積み重ねられている。中でも一般の利用者にとって最も衝撃的だったのは、一昨年に米国から到来したウェブ2・0ではなかっただろうか。
それはまさに黒船だった。専門家は、単なるIT業界におけるパソコンメーカーと検索サービス企業との覇権争いと分析するかもしれない。だが一般利用者から見ると、データベースから瞬時にさまざまな知識を検索でき、しかも無料のアプリケーションソフトも使えるというのは朗報というほかはない。
むろん、能天気なウェブ2・0礼賛には批判もある。無料というのは、広告と組み合わされているからであり、一般利用者がアプリケーションソフトを使用すると、いつのまにか広告の片棒をかつがされてしまう。検索サービス企業に情報が一極集中し、知らないあいだに操作される危険性もないではない。
≪新たな共同体の誕生≫
だがこれらの長所短所を別にして、さらに議論すべき大切な問題は、ネットによって新たな人間観が生まれつつあるという点なのだ。
ウェブ2・0によって、一般の人々がネットを読み書きする自由度ははるかに大きくなった。ネットはすでに、テレビより身近なメディアになりつつある。とりわけ若者は、マスコミよりネットの情報を頼りにし始めている。
独り暮らしの若者で新聞をとらない者は多い。学生たちは、無料百科事典であるウィキペディアをはじめ、ネット上で流通している記事や知識を検索してリポートを書く。ウィキペディアの書き手には誰もがなれるのだ。
とくに興味深いのは、ネット上でつづられる個人の日記「ブログ」である。若者はもちろん、今や多くの老若男女が、気に入ったブログの熱心な読者になり、自分でもブログをつづる。人々はブログを通じて見知らぬ相手とつながり、さらに自分のアイデンティティーを見いだそうとしているのだ。そこにはあたかも結社のように、一種のネット共同体が形成されていく。
100年あまり前、新聞は人々の意見をまとめあげ、近代国家を支える「国民」をつくりあげた。さらに50年ほど前から普及したテレビは、大量生産・大量消費の共同体をつくりあげた。そして今や、ネットが、新たな人間同士の出会いや連帯の場をつくりあげつつあるのである。注目すべきは、ブログを書くことによってネット上に出現する人格が、これまでの近代的な個人とはやや異なる性格を持っているという点である。
近代的な個人とは、少なくとも理想的には、独立して思考する主体である。政治的・経済的な自由を要求するかわりに、首尾一貫した論理にもとづいて行動し、言明したことに責任をとる人格である。たとえ現実と理想とのあいだに落差はあっても、この理想的な近代的個人を基準にしてものごとが語られてきたことは間違いない。
≪自己イメージ自由自在≫
しかし、ネット人格とはそういう存在ではないのである。男性の名前で書かれたブログも、実は著者は女性かもしれない。むろん、逆もありうる。一人の人間が幾つかの名前で別々のブログを書くこともできる。あるいは逆に、何人かが交代で、一つのブログを書くこともある。そこに出現するのは多重人格や融合人格なのだ。彼ら・彼女らは、ネット上の言説から強い影響を受けつつ、自由自在に自分のイメージを変転させていく。
さらに、言明したことに責任を持たせることも難しい。過激な発言はいっとき注目を集めるが、膨大な情報の海のなかでたちまち影響力を失い、消えていく。根も葉もない誹謗(ひぼう)中傷は困ったものだが、すぐに忘れられるなら、それほど目くじらをたてるまでもない、という意見さえ出てくるかもしれない。
こういう風潮は、早晩、近代的個人とそれにもとづく近代的社会という理念を侵食していくだろう。もはや、単に嘆いたり、抑圧的な政策をとったりすればすむというわけではない。
われわれは冷静に事態をみつめ、望ましい21世紀ネット社会とはいったい何か、それをいかに築くべきか、真剣に模索していく必要があるのである。
東京大学教授・西垣通(にしがき とおる)
- 2008/04/29(火) 18:03:20|
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