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メディアの自走性

伊東 乾の「常識の源流探訪」



「数値目標」が判断を誤らせる


タレントで弁護士の橋下徹氏は財政再建を旗印に選挙戦を戦って大阪府知事に当選しました。2008年2月6日に行われた知事就任後最初の記者会見で橋本氏は「財政非常事態宣言」を出しています。今回はまず、この「非常事態宣言」という言葉に注目してみましょう。

辞書で調べると「非常事態宣言」とは、主として国家の運営が何らかの理由により破綻の危機に瀕し、これに対して「平時の法制を超えた措置を実施すること」を最高責任者が発令するものとされます。テレビの演出にも通じているはずの橋下氏やそのブレーンたちは、あくまで比喩、ないしキャンペーンとして、この「非常事態宣言」という言葉を使ったのでしょう。しかし、言葉の定義を厳密に考えるなら、これは大変に不用意なことです。なぜなら選挙という民主的な手続きで選ばれたはずの候補者が、知事に就任早々「平時の法制を超えた強権」の発動を宣言している、と誤解されても仕方がないからです。


当選直後の戒厳令?

通常「非常事態宣言」が発せられる対象としては外国からの武力攻撃や内乱、暴動、テロ、大規模災害などが挙げられますが、橋下氏は財政再建に関して平時を超えた強権を発動しかねないと、就任早々宣言している。

通常の「非常事態宣言」発令に際して行われる措置には、警察および軍隊を含む国家公務員の動員、公共財の徴発、検問や家宅捜索などの許可、特に内乱に際しては集会の自由やストライキなど市民の権利を制限する措置も含まれる。こうした市民の権利制限が強くなると、性格として戒厳令に近くなってしまいます。

この最初の記者会見で橋下氏はまた。2008年度予算は前年比で「1000億円削減する」と明言してしまいます。この「1000億」という数字の算出根拠はよく分かりませんでした。が、ともかく一度「1000億削るんだ」という「数値目標」が立ってしまうと、それに向けて物事が動き始めてしまいます

「子供が笑う」をキャッチフレーズに当選した橋下氏が、最初の記者会見で「財政に関しては戒厳令を発布します」と公言した。このことの意味や責任は、以下の経緯などを見るにつけても、きちんと考えておく必要があると私は思います。


拙劣な「合理化案」

果たして、上の記者会見から2カ月ほどが経過した4月11日、橋下氏のブレーン集団「大阪府改革プロジェクトチーム」は、事業費や人件費などの削減によって平成20年度に1100億円の収支「改善」を図る「財政再建プログラム試案(PT案)」を発表します。若い橋下知事の「聖域なきゼロベース」での見直し方針に従って、高齢者、障害者、乳幼児を対象とした医療費補助削減のほか、私学助成のカットなど、府民生活に直接の影響を与えるものに踏み込んだ「大胆」な改革案が、2カ月ほどの短期間でまとめられました。

別の言い方をするなら、知事が公言してしまった「1000億」という数値目標に無理やりでも合致するようなプランが、2カ月程度の突貫工事で作られたとも言えるでしょう。

知事が各種人権団体などを含む「聖域なき改革」を掲げたことを評価する人もいます。確かに、慢性化した不健全な財政の正常化への決意自身は、その意気やよし、とすべきでしょう。しかし「PT案」内で同時に示された「府公務員人件費一律1割削減」「文化施設や文化団体、イベントへの援助打ち切り」などの方針の中でも、人件費削減はたった数日の内に予算案に計上しないことになりましたし、そもそも選挙で公約していた「原則として府債は発行しない」という大方針も、当選翌月に直ちに放棄され、160億円ほどの建設事業費用府債の発行が決定されました。私学助成金の削減も撤回されます。こんな具合で声の大きな圧力団体が存在する分野に関しては、就任早々公約と正反対の「現状維持」が続きますが、そうした反発の少ない分野では「公約遵守」なのか、「財政戒厳令」の施行が継続されそうな勢いです。その最たるものが文化や福祉の政策にほかなりません。


行政の社会的責任

私のホームグラウンドであるクラシック音楽の分野でも、大阪センチュリー交響楽団への助成が大幅に削減されることになりました。今年度は前年度比1割弱の削減ですが、来年度は補助自体をまるまる廃止する方針、と聞いています。これは、まともな社会人が計画性を持って立てる「2年度計画」と呼べるものではありません。2カ月の急ごしらえで作った「PT案」の中でも、最も拙劣かつ乱暴極まりない「支出削減案」の1つと断言してかまわないでしょう。

当然ながら、大阪では「オーケストラを守ろう」という声が沸き上がり、署名運動なども起こっています。ただ、先月関西でオーケストラの仕事があり、そこで私も現地の声を聞いてみたところ「ほかにも痛み分けをしている分野があるので、私たちオーケストラだけを、とは強く言えない…」と困惑する現場のホンネも聞きました。

「財政が危機に瀕している」という「非常事態」で「戒厳令」が発布され、「聖域なき改革」の旗印で極端な支出削減案を、経験の少ない若いスタッフが短期間に作り上げる。そのこと自体を悪いとは必ずしも言えないかもしれません。慢性的な財政破綻に苦しむ地方自治体としては画期的な、カンフル注射的な効果は上がったでしょう。

さてしかし、いざ旗印を掲げたところで、声の大きな圧力には「聖域」のないはずの「改革」がさっさと腰砕けになり、小さな声しか本当に上げることができない文化や福祉が結果的に「聖域なしに」圧迫されて「数値目標」の達成が急がれるという状況は、正確に指摘しておく必要があります。

ここで見失われているものは何か? それは「行政の社会的責任」そのものにほかなりません。敢えて「CSR」(企業の社会的責任)になぞらえて言うなら「GSR」Government’s Social Responsibility の感覚が完全に欠如したまま、「支出の削減」という数字の目標だけが暴走し、一度破壊してしまったら、二度と取り戻せない「環境」に対する行政の責任を、全く顧慮していないから、こういうことが起きるのでしょう。


ナチスの非常事態宣言と福祉・文化の圧迫

これは大阪の例とは無関係ですが、「非常事態宣言」と「福祉、文化の圧迫」が直結する代表例として、私はどうしてもナチス・ドイツの社会政策を想起してしまいます。

アウシュヴィッツ強制収容所でのユダヤ人大虐殺などは多くの人がご存じですが、こうした「絶滅政策」の端緒が、心身障害者の福祉圧迫に端を発したという事実は、日本では十分に知られてはいません。

「精神病患者や精神薄弱者などを国家が補助して養うと」「1年当たり何万マルク(ライヒスマルク)の無駄になる」「だから病院収容所に集住させて」「最終的には絶滅政策の対象とする」

一般にはナチス・ドイツの「狂気」が強調されることが多いですが、現実のナチス政策は押しなべて極めて「合理的」で、明確な根拠があるものばかりです。ポイントは、そこで「人命」などより「財政」「効率化」などを優先するという価値判断にある。それを「狂気」と呼ぶことに私は大いに反対です。そんなことを言っているから幾度も同じミスを繰り返すのです。「価値観」の誤りをこそ、私たちは「他人ごとではない」と自戒して、意識し続けねばならないと思います。

社会が心身障害者と共生することで発生する財政支出が一定額あるでしょう。それをゼロにするという程度のソロバン勘定で「非効率な人間は殺処分」という決定を下してしまったナチス政権は、何か決定的なものを失ってしまいました。

取り返しのつかない、何かの「精神環境」が、決定的に破壊されてしまった。当初は障害者や精神病者に限られていた政策が、やがて「劣等人種」と勝手な烙印を押した「ユダヤ人」やナチスに抵抗する政治犯、ロシア人、ポーランド人、ルクセンブルク人全体などに拡大するのはアッという間でした。多くの「取り返しのつかない一歩」は、小さなきっかけから踏み越えてしまうことが多いようです。


「後期高齢者医療制度」にも同じ構造が…

先週「分子進化の中立説」から「一見目立たない突然変異」の急速な蓄積を社会現象に当てはめて考えましたが、あの話は前回の「裁判員制度」だけに限るものではなく、およそあらゆる社会現象に関して、慎重に検討してみる価値があるものだと私は考えます。

「やがて到来するであろう団塊世代の老人医療費爆発」を念頭に、「数値目標」が設定されて、試行的に導入されたらしい「後期高齢者」医療の問題も、上記と大変に似通った性格を持っています。私自身、身近に80代90代の方が幾人も居られるのですが、ほぼ全員の方が例外なく「年寄りは死ねという政策か?」と、既に憤りを超えて呆れて言葉が出ないようです。

一度壊したら取り返しがつかない、生命のようなデリケートな対象への顧慮を欠いた、乱暴で拙速な「数値目標」の実現。近代化(モダニズム)が歌われた20世紀を通じて、これによってどれだけの地球環境が破壊されたことか(乱開発)。あるいはどれだけの貴重な文化が失われ(「文化大革命」からタリバーンによる「バーミアン石仏爆破」まで)、どれだけ精神風土が荒廃したことか(米国社会が典型的ですが)。

内外の歴史に先例を見ても、拙速な「合理化」の改革が、取り返しのつかない「環境破壊」を引き起こした例は枚挙に暇がありません。


精神・文化の環境保全

さて、話を大阪に戻しましょう。

大阪府が一律に支出削減の対象とし、声が大きくなかったために存亡の危機に瀕しているのは、お笑いの「大阪府立上方演芸資料館(ワッハ上方)」、男女雇用均等に関する「大阪府立女性総合センター(ドーンセンター)」そして大阪センチュリー交響楽団などです。いずれも、一度壊してしまったら、もう一度それを作り直すのは大変な「精神・文化の環境保全」に重要な役割を果たしている施設と言ってよいでしょう。

生命と同様、文化や精神、つまり「こころ」の器は、破壊してしまうのはいとも簡単です。しかしそれを一から作り出すのは物凄いエネルギーを要します。実際、上記のすべて、かつて「著しいエネルギー」が投入されて、いま存在している設備です。それを、思慮の欠けた拙劣な「合理化案」が、再起不能に追い詰めるところまで破壊するとしたら、一体、それらの施設を作った本来の意図とは、何だったのでしょうか?

社会的存在が持っている価値、果たしている役割、あるいは文化、社会環境の保全という観点。

そこから全体のバランスを取りつつ、支出の削減などを考えるのが、行政が果たすべき社会的責任にほかなりません。現状の「PT案」は、「精神環境」の破壊に関しては戒厳令のまま、極端に乱暴な「数値目標」を振り回しています。

ところが、強いクレームがついたところは軒並み腰砕けになっている。結局「1000億の支出削減」は実現せず、かけがえのない文化価値だけが根こそぎになる、ココロだけ荒んで終わる代物になるように見えてしかたありません。



ココロを統御する大人のプロフェッショナル

既に報道されているようにこの「PT案」を公開した直後の4月17日、橋本知事は府内自治体の首長と意見交換を行うための会合を開きました。ここでは各首長から知事への不満が約1時間にわたって爆発しました。

例えば守口市の西口勇市長は言います。

「子どもが笑う、大人が笑う? どこが笑うんですか? こんなことやっちゃったら泣いて苦しみますよ」

摂津市の森山一正市長は「この際、無責任なたたき台は白紙に戻しなさい!」と、未経験な若者を諭す年長者の口調で叱ったそうです。

こんな状況下、橋下知事はあろうことか泣き始め、声をしゃくり上げながら「いま一度ご協力のほど、宜しくお願いします」と答えたという。それが「メディア」を通じて広く報道されてしまいました。

この「涙」が報道されると、マスコミというフランケンシュタインが自走し始め、おかしな世論が動き始めます。何が起こったのか? 橋下知事への「ガンバレ!」という支持が7割を超えるという現象が起きてしまうのです。

このコラムで私は「ヒトの意思決定は情動がつかさどる」という生理的事実を幾度も紹介してきました。ですが今回の例ほど、そのポピュリズム展開が顕著に見えたことはありませんでした。

30年近く前「ザ・ベストテン」というテレビのお化け視聴率番組で、松田聖子が1位にランクインし、泣きながらヒットソング「青い珊瑚礁」を歌って、人気を不動にしたのが思い出されます。

知事の「涙」が登場すると、府下の首長たちが「悪者」になってしまう。正確には「悪者」に見えてしまう。「泣けば正義」とまでは言えなくても、涙によって、それを見る人の判断が大きく「採点の甘いもの」になってしまうことは、「裁判員裁判」の話題でも触れた通りです。まさに「お涙頂戴」の「浪花節」になってしまう。

さらに、泣いている最中にヒトはまともに思考することができない、つまり効率的に脳を駆動することができないという生理的な事実も、幾度も触れましたが、再度強調しておきましょう。

首長たちに吊るし上げを食らって泣いている時(それが効果を狙ったウソ泣きでない限り)、橋下知事は地方公共団体の長として冷静な判断を下せる、脳の生理状態にはなかったはずです。府知事の重責からは、二度と繰り返してはならない失態と指摘しておく必要があります。

府下の首長たちとの会合という、最も高度に判断を下すべき場において、思考不能の状況(嗚咽)に陥るというのは、要するにこころのコントロールができていない、情動的に未熟の一語に尽きるものです。

曲がりなりにも人口880万府民の生活を守る責任を持つ立場にあるのであれば、こうした場で冷静に物事を判断する強い心と判断力、感情をコントロールする人間としての「器量」が必要不可欠です。その胆力を全く持っていない本質を露呈したうえに、さらにその不始末そのものがメディアの自走性によって「支持」に転化し、正体不明の「追い風」が吹き始める。

誰も企図していないのに、ファシズムというフランケンシュタインが動き出して、いつのまにか止められなくなってしまうのと全く同じ「メディアマインドコントロール」の自走性を、この「泣いた橋下知事への支持現象」に指摘しなければなりません。

これはとんでもないことです。要するに、どんなヒドイ政策を振り回していても、理屈をすっ飛ばし、涙で大衆の情動を揺り動かし、理非と無関係に支持が増大してしまう。橋下氏も10年以上弁護士を本業にしていたのでしょうから法廷でのやり取りや、そこで裁判官の情状を取りつける手練手管はよく知っているはずです。もしその応用で、故意に「お涙頂戴」を演じたのであれば、責任ある首長として資質を疑わざるを得ないことになります。

過失で泣いたのならお粗末の一語。故意であれば府民を欺くパフォーマンス、つまり芝居で同情を集めて、物事の本質を見えなくするのだから、これまた知事という責任ある立場でなすべきことでは絶対にない。どちらにせよ、ろくなものではないことを、ほかならぬメディアを通じて明確に断言しておかねばなりません。

この連載で私がマスメディアと「情報の環境問題」をCSR(企業の社会的責任)の主要なテーマに設定しているのは、こういう「メディアを通じた情報汚染」を未然に防止してゆく、高い目線の水準を持って、良心の灯を社会に絶やさないことが重要だと思うからにほかなりません。


精神環境は一度壊すと回復至難

橋下知事のスタッフたちによる「PT案」が、よく考えずに数値目標で「切り捨てる」と決めた「ワッハ上方」「ドーンセンター」などの施設は、いま書いた「精神の器」人間性とその「器量」を支える、価値ある施設として官費が投入されて設立されたはずです。市民生活に根ざした大切な「文化資源」として、公金を投じて作られたものでしょう。

私の専門で言うなら、オーケストラというのは「ココロのコントロール」「感情の制御」を子どもたちに教える、およそ人知の生み出した、最も優れた学校、教場にほかなりません。

私たちも演奏のさなかに、稀にですが、感極まって涙が流れそうになることがあります。でも、泣いていてはきちんとした演奏はできません。それを自制しながら、確かな感動をお客さんに伝え、今日という日を生き、演奏会という場を共にさせていただいた、生きていて良かった、音楽を共にできてよかったというその価値と意味をしっかりとつかむ。そういう仕事をナリワイにしているのです。

職業芸術家、芸術音楽家の仕事は、ここに大きなポイントがあります。かつて「題名のない音楽会」というオーケストラのテレビ番組で音楽上の責任を持っていた時、私の主要な仕事は、暴力を使わないケンカだったような気がします。というのも、企画会議のたぐいに私は音楽家の(利益)代表として出席していたわけですが、テレビ的なウケを狙いたい制作プロダクションや広告代理店と、鋭く対立せざるを得なかったのです。

職業芸術家として真面目に生活しているオーケストラ演奏家が大切に守っているものがある。右派文化人としても社会的に知られた黛敏郎氏が存命中は、若干視聴率が低くても、音楽の良心にそむくような番組作りはさせなかった。ところがその一線が無くなってしまうと、そこにバラエティ番組の制作プロダクションなどが土足で入ってくるようになる。プロデューサー一人ではなかなか抑えられない。私は黛さんと違ってタカ派ではありませんが、音楽のうえでは通じるものを認めてもらっていた縁があって、その急逝後、番組に責任を持つことにもなりましたので、守ってきたものを台無しにされないよう、徹底して戦うことにしました。まだ30代前半でしたから、若かったのも一因でしょう。

オーケストラのような「精神陶冶の機能」を持つ教育的な組織は、人類社会を広く見渡しても、あまりたくさんは存在していません。本当に貴重なものなのです。

ただ一方では、私たち音楽家サイドも、このようなオーケストラの持つ固有の価値を、もっと分かりやすい形で、社会に還元してゆく必要があるでしょう。

例えば企業経営を考えるうえで、オーケストラという仕組みには、参考にすべき様々な英智が詰まっており、いずれこうした話題にも、このコラムで触れられればと思っています。

音楽サイドも、単に「大事な文化だから助成を!」というだけでは、乱暴で無思慮な合理化に対抗することはできません。逆に「これが失われると、どう困るのか」、社会全体に受け入れられる、価値の喪失として訴えねばならないでしょう。

「オーケストラがなくなると、プレーヤーの生活が困る」のは、当事者にはもちろん切実な問題です。しかし同時に「オーケストラ文化」を生きる私たち音楽家が活動し続けることで、社会にどれだけかけがえのない価値を還元できるのか、それをより明確化する努力も必要な時代なのだと思います。

「文化」はココロの器です。これに触れ、人は感動を通じて感情的に成長し、より力強い人間性を獲得して、難局に対処できる器量も養うことができる。そういうコントロールができるようになれば、少なくとも大切な職業上の会合で、自分の感情を抑えることができず、嗚咽するようなことは減るはずです。

「精神環境」は目に見えません。それを支える文化的な価値は、おなかが減った時には必ずしも腹いっぱいにはしてくれません。しかしココロの置き所が無くなった人に、人間の暖かい感情を取り戻させてくれる、本当にかけがえのない価値を持っている。一方で、「キレる」子どもの心の荒廃や教育を問題にしつつ、同時に「財務」という、顔のないのっぺらぼうの数字によって、せっかく作ったはずの「心の社会資本」をつぎつぎに壊してしまうような、全体像とバランスを欠く政策観はまったく感心しません。

「笑い」という感情が人間にとって持つ意味など、既にこのコラムで幾度も触れてきた通りです。「男女の雇用均等」というのは、ただ言葉で書き、あるいは制度を整えればそれでよい、というものではない。そこで仏を作って魂を入れる施設が作られたはずです。そういう内実に配慮した、現実的な予算削減案であれば、当事者も世論も、違う反応を示しただろうと思います。1か0か、100点か0点かという「改革」の性急さ、それ自身が拙劣なのです。 先に立てた数値目標で内実と無関係に、旋策のあちこちを素人が台無しにして、気がついた時には再起不能なほど行政環境が破壊されていた、では済まないのです。

府財政の健全化は、サラ金の多重債務の整理案ではない。弁護士的な感覚だけで債務整理に当たるとすれば、そこでまるまる欠如するのが「行政の社会的責任」の自覚、ということになるでしょう。


知事は自分の子どもを連れて、まず謙虚に客席へ

たたき台として評判の悪い「PT案」は、6月をめどに予算化されるようです。ここで、私は思うのですが、橋下知事さんには闇雲な「数値目標」の達成や、無思慮な「聖域なし」などではなく、一つひとつ対象を見極め、それらが持つ共同体的な価値を判断したうえで、言うなれば「野党的」な弁護士感覚ではなく、行政府の長としてのバランス感覚と責任感を持って、きめ細かな決定を下す「行政の社会的責任」を徹底してもらいたいと思います。

とりわけ、大阪センチュリー交響楽団に関しては、乱暴な「補助金全廃」のアタマゴナシの前に、どうですか橋下さん、一度客席に足を運んで、演奏を聴いて、何か感じたり考えたりしてから、どういう決定を下すか、改めて決めてみてはどうでしょう?

オーケストラ、そこには学生時代から「ここ一番」という清水の舞台のような試練、入試などの試験演奏から入団オーディション、演奏会の修羅場など、無数の苦境を切り抜けてきた百戦練磨の「感情統御の達人」が100人から、身体を張って演奏をしています。音楽家は涙を見せて客の歓心を買ったりはしません。音楽という実質で、人の心に訴える、そういう職業を生きている。そういう現実を、いちどよくアタマを冷やして認識して頂きたいと思います。コップの水をこぼすのは一瞬、いちどこぼれた「覆水」は、容易には盆に返りません。

現状の「PT案」は、文化資源への無思慮という観点では、アフガニスタンのタリバーンがバーミアン石仏を爆破したのと同じレベルと言って構わない、乱暴なものです。若く見える橋下知事は、実は7人の子どもがいるという。ここはひとつ、静かに胸に手を当てて、いま無責任な無思慮によって存亡の危機に置かれている楽団と、生活の根幹を破壊されつつある音楽家たちの演奏を、知事自ら両目両耳でしっかり見て、聴いて、「子どもの笑う」大阪を文化資源保護、精神環境保全という観点から、根本的に考え直してみるべきではないでしょうか?

その際はぜひ、7人の子どもたちも伴って、また「ワッハ上方」「ドーンセンター」などを回ってから、夕方のオーケストラのコンサートを聴いていただくのがよいでしょう。私自身はセンチュリー交響楽団と一切の利害はありませんが、もし知事一家が聴きに来る、ということになったら、すべての関係者が、(いつも通り、でもあると思いますが)楽団の存亡を賭けて、一期一会の演奏をすると思います。

そこには人間の深い真実が、かならず立ち現れてくるはずです。まだ感じ方も考え方も柔らかいお子さんたちにも、何か大切なものを持って返って貰えれば、と思います。

これは単に橋下さん一人ではなく、類似の行政判断を問われている、責任ある立場の方すべてに、一音楽家として、また感情のコントロールとメディアの問題を調べている一大学人として、常に強くお勧めしたい事に他なりません。

(つづく)
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  1. 2008/05/26(月) 02:11:08|
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